まもらなくちゃ、まもらなくちゃ
腹が減って腹が減って、動けなかった。
それは此処数日に限った事ではない。
狩りをする為のエネルギーすら、とうの昔に尽きている。
兄も少しずつそうなって来ているのは判っていたが、どうする事も出来なかった。
鼠はおろか、虫一匹も捕まえられなくて、大して美味くもない草で、空腹を誤魔化す日々が続く。
時々、兄が小さな鼠や小鳥を捕まえて来ては、食べろ、と言って差し出してくれるのが、嬉しいけれど、とても悲しかった。
自分は、食べてもどうせ狩りを上手く出来ないから、食べるなら兄が食べれば良いと思った。
兄が食べれば、兄は腹が膨れて力を取り戻し、また獲物を捕まえる事が出来る筈だ。
手のかかる自分と言う存在がいなければ、兄は強く生きていける事が出来るだろうと、何度思ったか判らない。
けれど、それを言っても、兄は良いからお前が食べろと言う。
弟が物言わぬ骸になるのが、兄は何より怖いのだ。
だからせめて、僅かな食糧を半分ずつ分け合って、一日一日を生き延びる。
だが、今日こそは駄目かも知れない、と思う。
日照りが続き、棲家の周囲を覆っていた草原がすっかり枯れ、近くで獲物が獲れなくなった。
母がいた頃には、揃って水浴びに出かけた川も、どうやら干上がってしまったらしい。
鼠も小鳥もいなくなり、草が育たなければ虫も近寄らず、空腹を誤魔化す草も足りない。
已むに已まれず、兄が遠出して獲物を探しに言ったけれど、一日経っても、二日経っても、彼は帰って来なかった。
棄てられたのかも知れない、と思うと、とても悲しいと同時に、少しだけほっとした。
自分と言う枷から解放されて、彼が生きてくれるのなら、それで十分。
一人きりで生きる事が出来ない、弱い自分が悪いんだ────そう思って、目を閉じた。
………けれど、それで終わりではなかった。
「こんなトコに穴があったのか」
「この木はサバンナの道標になっていたのだろうな。此処なら、動物達もよく通るから、食糧に困る事もない。……本来なら」
「日照り続きで草も育たなかったのか。それで、あんな場所へ獲物を探しに行っていた、と」
聞き慣れない音に、丸い耳がぴくっと震える。
眠いのに、と思いながら、のろのろと顔を上げると、ぺろり、と頬を舐められた。
「……がう……」
今度は、いつも聞いていた声が聞こえた。
重い瞼を持ち上げると、いつも見ていた蒼があった。
「ぎゃう……?」
「がうぅ…」
帰らないと思っていた兄が、其処にいた。
夢か幻かと首を傾げると、兄は嬉しそうに目を細め、すりすりと弟に頬を寄せる。
良かった、良かった。
もう起きないかと思った、良かった。
お腹空いてるだろ、ご飯を持って来たぞ。
そう言って、兄は弟にリスの肉を差し出した。
「がぁう」
食べろ、と兄は言った。
俺は先に食べたから、と。
そんな兄は、身体中がボロボロに傷付いていて、濃い血の匂いがする。
嗅ぎ慣れない匂いも混じっていたが、そんな事はどうでも良かった。
どんなに危ない場所へ行ったのだろう、そう思うだけで、弟は泣きそうだった。
きっと兄も腹がペコペコに違いない。
先に食べたと彼は言ったけど、本当かどうか弟には判らなかったし、兄は平気でそう言う嘘を吐く。
けれど、差し出された肉は、弟にとっても久しぶりの食糧で、見た瞬間に腹が鳴った。
じわじわと目尻に雫を浮かべながら、弟は何日かぶりの肉に齧り付く。
肉を食い千切る力もない弟に代わり、兄は肉を千切りながら、弟に肉片を与える。
弟は貰った肉を齧りながら、兄の牙や爪があちこち欠けている事に気付いた。
そうしてまた涙を浮かべる弟に、美味いか?そうか、と兄は言って、弟の顔を舐めている。
肉を半分食べ終わった所で、弟はいつものように、兄に残りを差し出した。
兄はすっかり困った顔で、食べていいんだぞ、と言ったけれど、弟はお腹一杯、と言った。
埋めて保存して置く事も出来るけれど、そうするには二匹の兄弟の腹はまだまだ隙間だらけで、保存に回せる程の余裕もない。
兄は少し考えた後、弟の残した肉を半分に千切り、弟の分と自分の分に分けた。
二匹は譲り合うように、すりすり、すりすりと顔を寄せ合わせた後、二匹で一緒に肉を食べる。
久しぶりの食事に、弟はすっかり満足し、そんな弟に兄も満足していた。
胃袋は決して満たされたとは言い難いが、鳴り続けていた音も止んだ。
何より、兄が帰って来た事に、弟が無事でいてくれた事に、二匹は胸が一杯だった。
疲れ切ったように丸くなった兄に、弟が毛繕いを始める。
知らない匂いを沢山つけて、綺麗な筈の毛並も絡ませて、肢は泥と血で汚れている兄。
その一つ一つを丁寧に労わって、弟は兄の体を舐めていた────と、そんな時。
「どうだ?ラグナ。親はいそうか?」
「……いや、兄弟っぽい奴がいるだけだ。大きい獣人はない」
「子供が二匹だけ、と言う訳か。そいつは困ったな……」
耳慣れない声に、弟が顔を上げる。
音の方向を見ると、巣の出入口を塞いでいる影があった。
猿と似たシルエットをしているが、躯を追う毛は少なく、尻尾もない、見た事のない生物だ。
兄はそれを“人間”だと思い出したが、弟はそれには至らず、見慣れない生物が巣に迫っている危険に毛を逆立てる。
「ふぎーっ!」
「うぉおっ。ごめんごめん、驚かせたな」
弟が牙を見せて威嚇すると、生き物はささっと出入口から離れた。
が、嗅ぎ慣れない匂いが入口の方から漂って来て、いなくなった訳ではないと判る。
弟は、疲れ切って眠り始めた兄を守るべく、四足の格好で、いつでも飛び掛かれるように、じっと巣の出入口を睨んだ。
「獣人は普通の動物よりも成長が遅い。親がいないとなると、長くは生きられない事が多い。群れの一員ならまだ望みはあるが、そう言う訳でもなさそうだな」
「あんな小さな子供が、遠出して獲物を探す位だしな。大人は近くにいないんだろう」
「大きな方はともかく、巣にいた小さな方はいつまで持つか……このまま日照りが続けば、どちらも危ういかも知れない」
「あんな小さい奴等が、二人っきりでなあ……うーん……」
聞こえる言葉の意味を、獣達は理解できない。
幼い弟は、ただただ、疲れ切った兄を守る為、戦う覚悟で侵入者を警戒していた。
ひょこり、と頭の影が見えた瞬間、弟は渾身の声で威嚇した。
「ふぎゃーっ!!」
「わわっ」
直ぐに影が引っ込むが、弟は威嚇の体勢を解かない。
見知らぬ匂いが消えるまで、彼は兄を守るべく、震える体で立ちはだかるつもりだった。
弟が必死に威嚇している事を、巣穴の外の者達は理解している。
それが当然の反応であり、彼等にとって自分達は危険以外の何物でもない事も、判っていた。
そして、自分達は長く此処に留まるべきではなく、自然に生きる者に可惜に手を伸ばしてはいけない事も判っている。
しかし、理屈で全てが納得できれば、何も苦労はしない。
「なあ、キロス、ウォード。あいつら、俺が連れて帰っちゃ駄目かな」
「……ラグナ。お前の気持ちは判らないでもないが……」
「連れ帰った事が判れば、何をされるか。生態調査の名目でモルモットにされる危険が高いぞ」
「そ、そりゃ判ってるけど。このまんまじゃ、飢え死にしちまうだろ?」
「…厳しい事を言うが、自然の摂理と言えばそれまでだ」
「うう~……」
ひょこり、とまた影が入口から頭を出す。
弟は牙を見せ、ふぎゃーっ!と大きな声を上げた。
その傍らで、うとうととしていた兄が顔を上げる。
兄が前足で弟の体をぐいっと引っ張ると、弟はぺたんとその場に尻もちをついた。
疲れ切った兄は、引き摺るように体を動かすと、弟の体を前足で捕まえて、腹に顔を埋めて動かなくなる。
ぷん、ぷん、と尻尾が揺れた後、兄はすうすうと寝息を立て始めた。
兄の肉球が、弟の背中をぷにぷにと押す。
弟は兄を腹に埋めたまま、ころんと横になって、兄の体を出入口から見えないように隠した。
そっと覗き込んでくる陰に向かって、ぐるぐると喉を鳴らしながら、兄の眠りを邪魔しないように努める。
「……随分と二匹を気にしているな、ラグナ。何か思う事でも?」
「んー……いや、何って事でもないんだけど…昔、逢った事のある獣人に似てる気がしてさ。それだけなんだ」
巣穴の中を覗き込む翠色に、丸く蹲っている二匹の獣が映る。
まだ傷だらけの体を丸め、ふくふくと微かに腹を上下させて眠っている一匹と、じっと睨んで唸り続けている一匹。
戦う決意をしつつも、決してそんな力を持っていないと自覚のある弟は、覗き込んでくる影に、早く居なくなれと思っていた。
いなくなってくれれば、兄はゆっくり眠って休む事が出来るのだから。
しかし、弟の願いは空回りするばかりで、嗅ぎ慣れない匂いは中々離れようとしない。
眠った兄を狙っているのかも知れない、と思うと、弟は益々神経を尖らせて、ぐるぐると低い音を鳴らす。
「……仕方がないな。上の方は、こっちでどうにか誤魔化そう。獣人が保護対象である事は間違いないし、人工保育の例とすれば、許可も期待できる」
「本当か?頼むぜ、キロス、ウォード!」
「だが、過度な期待もしてくれるなよ?前例のない事だからな。何より、一番大変なのは、恐らくラグナだろうからな」
「判ってる判ってる。ちゃんと面倒見るし、何があっても放り出したりしないって」
「────では、これで方針は決まったが……ふむ、出て来てはくれそうにないな」
小さな体で、猛獣と寸分違わぬ眼力で睨む弟。
迂闊に巣穴に体を入れれば、躊躇わずに噛み付いて来るだろう────弟も実際にそうするつもりだった。
まだまだ幼いとは言え、爪や牙は百獣の王の特徴を宿しており、細く柔らかいものなら簡単に食い千切れる。
流石にそうなっては目も当てられない、と巣穴の外で遣り取りが続く。
「少し乱暴になるが……致し方ない。暴れてお互いに怪我をするよりは良いだろう」
「良いな?ラグナ」
「……ああ。恐がらせるだろうけど、ごめんな。少しだけだからな」
巣穴の奥に篭っている兄弟に、そう言った後、何か細長いものが入口から中に入って来た。
蛇に似た細長い物体に、ぞわっと弟の毛が逆立つ。
弟は、兄を腹の下に隠すように覆い被さり、ふーっ、ふーっ、と鼻息を荒くして威嚇を始めた。
ぶしゅっ、と音を立てて、蛇が煙を吐き出した。
煙はあっと言う間に巣穴全体を覆い付くし、獣達の視界と嗅覚を奪う。
幼い弟は、何が起きているのか判らないまま、とにかく此処は危ないと、眠る兄の体を口に咥えて引き摺り、巣穴の奥へ奥へと逃げた。
しかし巣穴は直ぐに行き止まりへと突き当り、入り口からはもくもくと煙が増えて来て、あっと言う間に逃げ場を失う。
どうしよう、どうしよう、と戸惑っている間に、くらり、と頭の中が揺れた。
巣穴の奥で、折り重なって眠る兄弟に、ゆっくりと何かが触れる。
すう、すう、と寝息を立てる二匹を見て、ごめんな、と緑の瞳が呟いた。
≫
拾われました。