[16/シドクラ]油桃果
シドと共に、トルガルを伴って、魔物討伐を終えた時には、随分と陽が傾いていた。
このまま隠れ家に戻ろうとしたとて、道程の半分を行かない内に夜が来る。
夜の山野は、如何にドミナントが同行しているとて危険なものであることに変わりはなく、適当な所で野営をしてから、明日の帰路とした方が無難だと言う判断になった。
そんな訳で野営に適した場所を探しているシドとクライヴだが、街道沿いは彼らにとっては反って危ない。
お尋ね者も同然のシドは勿論、クライヴも脱走兵として目を付けられている節があったし、見回りのザンブレク兵に見つかっても面倒なことだ。
少し身を隠すことが出来るような、多少なりと視界が遮られる鬱蒼とした場所の方が、彼らにとっては都合が良かった。
少し山寄りに目星をつけ、魔物の気配も少なく、火を起こしてもあまり人目に付きそうにない場所───そんなポイントを探していると、とある木を見付けたシドが目を輝かせた。
「良いものを見付けたぞ、クライヴ」
「……なんだ?」
言われて辺りを見回して見るクライヴだが、特に変わったものは見付からない。
きょろきょろと首を巡らせていると、シドは「上だ、上」と言って指差した。
促されるままにクライヴが視線を上へと傾けてみると、少し急勾配になった斜面から、迫り出すように幾本かの木が伸びている。
ただの木だが、とクライヴは思ったが、よくよく見れば、その広がった枝に点々と赤いものが生っていた。
折り重なる葉の隙間から落ちる木漏れ日を受け、それはきらきらと艶を持って光っている。
林檎だろうか、と思ったクライヴだが、それはもっと寒い頃に実を成すものだった気がする。
首を傾げて斜面を見上げるクライヴに、シドは生え延びる木々の幹を伝うように斜面を登りながら言った。
「この時期なら美味いものがある筈だ。少し獲って行こう」
「食べられるものなのか。毒性は?」
「ない。ものによっちゃ酸っぱいだろうが、まあ、よく選べば食えない程のものには当たらないだろう」
木に近付いて行くシドを、クライヴも追って見ることにする。
もう少し近くに行けば、あの木に成っている実が何なのか知れるかも、と言うささやかな好奇心があった。
今日一日を共にしていたトルガルも、鼻をすんすんと鳴らしながら、相棒の後を追う。
斜面の中腹から、空に向かって斜めに伸びた木。
それは感覚を開けて、他の低木を間に挟みながら、幾本か立っていた。
どれもが同じ色の実をつけており、鮮やかな赤色に見えたが、やはり林檎ではないようだ。
形状が林檎のものとは少し違う、もう少し楕円形をしていて、曲線はつるんとしているように見える。
シドは幹がしっかりしている木を選んで、するりとそれを上り始めた。
クライヴはその下まで辿り着くと、木登りしていくシドを見つめる。
「食糧になるか?持って帰るのか」
「さて、どうかな。こいつはあまり日持ちが長くないんだ。固いものがあれば、持って帰ってる内に熟して良い食べ頃にはなるかも知れんが。良い奴なら今日中に食った方が美味いだろうな」
言いながらシドは、幹の先についている実に手を伸ばす。
指先で包むように触れて、その感触を確かめた後、軽く捻ってもいだ。
鼻先を寄せて匂いを確認すると、うん、と頷いて、
「中々良さそうだ。ほら、落とすぞ。上手く取れよ、落とすと傷がつく」
「ああ」
どうやら、随分と繊細な果物らしい。
そう言うものは、落果して傷がついてしまうと、あっと言う間に傷んでしまうこともある。
クライヴはシドの真下に移動して、落とされた木の実を受け取った。
腰の皮鞄から適当に使えそうな布を取り出して、クライヴはそれで木の実を包むことにした。
続けてシドが落とした実も、ひとつ、ふたつ、みっつと受け止めて、一緒にまとめておく。
ひとつの木に成っていた、丁度良さそうな実を選別して採取し、シドは「こんなものか」と言って木を下りた。
それから野営地は程なく決まり、川の袂を見付けた所で、陽が沈んだ。
手近な場所から燃料に出来る薪を拾い集め、焚火を燃やす。
太陽が沈むとじんわりとした冷気が川辺から滑って来るのを感じながら、取り合えずはこれでゆっくり出来る、とクライヴはひとつ息を吐いた。
さて、一息ついたのならば、腹拵えだ。
シドは早速、採取して置いた実を取り出した。
「どうやって食べるんだ」
「まるごと齧っても良いが、種は取った方が楽だな。半分に割るからちょっと待っていろ」
シドは荷物の中から果物ナイフを取り出した。
実の中心辺りに刃を入れると、そこから縦に一周する形で、実に一巡りの切り込みを入れる。
筋の入った実を両手でそれぞれ持つと、捩じるように左右を反対へと回した。
みち、と繊維の連結が千切れる音が小さく聞こえた後、実は切り込みを入れた真ん中からちょうどぱっかりと二つに割れる。
実の中にオレンジがかった黄色だが、中央の大きな種がひとつ入った所は、濃い赤色に染まっている。
シドは「持つなら装備は外した方が良いぞ」と言ってから、種のない方をクライヴに差し出し、手元に残った方の種をナイフで穿って取り出す。
その間にクライヴは、素手の手元に渡された実に鼻を寄せ、くん、とその匂いを嗅いでいた。
「……酸っぱい匂いがする」
「酸味は少し強い。果肉は食べると甘味もある」
「皮ごと食べれるのか」
「そのままいける。まあ、好みはあると思うがな」
シドの言葉に、ふうん、と言って、クライヴは口を開けた。
綺麗に半分に割れた果肉の端を齧って見ると、じゅわり、と果肉から溢れんばかりに蜜が出る。
口端から零れる程に出て来た蜜が、クライヴの顎を伝って喉を滑って行った。
「んぐ、」
「この水分だからな。傷がつくと其処から一気に駄目になるんだ」
喉を伝う雫を手甲の腕で拭うクライヴに、シドがくつくつと笑いながら言った。
「凄い果汁だ。水分補給に良さそうだな」
「ああ。一部の地域じゃ薬効果としても珍重されてるものだと聞く」
「それなら、持ち帰れれば色んな役に立ちそうだが……傷むのが早いのか。残念だな……」
薬効としての効能が期待できる程の、瑞々しく甘い果実。
酸味と、ほんのりとした甘みもあって、果肉は歯で軽く噛めば良い程度の固さだから、病人食に良いだろう。
しかし、傷が付けばあっと言う間に傷んでしまう、そもそも日持ちも良くないとなれば、中々こうした代物は難しい。
長期保存の方法もあるとは言うが、それだと水分を蒸発させた欲し果実にせざるを得ないし、作っている最中に変色も始まるから、あまり薦められない。
採ったらその日のうちに、長く見積もっても翌日中が限界だろう、とシドは言った。
致し方のないこととは言え、持ち帰りが効かないことは、少し残念だな、とクライヴは思う。
隠れ家で新鮮な果物と言うのは非常に貴重だ。
だからこそ、持ち帰ることが出来れば皆も喜ぶだろうと思うのだが、それは叶わない。
クライヴの横で丸くなっていたトルガルが、すんすんと鼻を鳴らして、クライヴの手元に寄って来る。
「食べるか、トルガル」
「種も取ってあるし、ま、ひとつくらい大丈夫だろう」
「───と言うことだ。良かったな」
クライヴはトルガルの頭を撫でて、果実をその口元に寄せてやった。
トルガルは果実の表面をぺろりと舐めると、尻尾をふさりと揺らす。
半分の実を地面に置いてやれば、トルガルは直ぐにそれに喰いついて、滴る果汁ごとごくりと飲み込んだ。
今日のシドとクライヴの食料は、この果実だ。
シドはもう一つ、実を先と同じように二つに割って、種のない方をクライヴに渡す。
クライヴはさっきのように果汁を垂らさないよう、手の中で実を水平にして、端から蜜を啜るように口をつけた。
それでも水分いっぱいの果肉に歯を立てれば、千切れた繊維の隙間からジューシーな果汁が溢れ出し、クライヴの口まわりや手のひらをしとどに濡らす。
クライヴはそれらを適当に拭いながら、瑞々しい果肉に尚も被り付いた。
その様子を見ていたシドが、自分の果肉を齧りながらくつりと笑う。
「随分、気に入ったようだな」
「……んぐ……こういうのは、久しぶりだったから」
「まあ滅多に見付かるものでもないしな」
「それもあるが……」
確かに、野生の実で、こうも美味いタイミングで手に入れられる果実に出会えることは貴重だ。
だが、クライヴの“久しぶり”と言うのは、それだけが理由ではない。
十三年間をザンブレク軍のベアラー兵として過ごした中で、質の良い食糧にあり付けたことは先ずない。
使い切りの駒として扱われるベアラー兵には、危険な任務が回って来るが、それを熟す為の物資に碌なものは用意されなかった。
装備でさえも下げ渡しか、使い古しを無理やり継ぎ接ぎにしたものだから、食糧の類なんてもっと酷い。
用意して与えられるならまだマシで、現地で自力調達せねばならなかった事も多い。
それも現地と言うのが、大抵は戦の最前線であったり、黒の一帯を始めとした不毛な地に赴く場合が多いから、見付かる食べ物なんてたかが知れている。
緑豊かな場所なら、まだ木の実でも動物肉でも望むことは出来たが、そんなものを望む気にもならないのが当たり前だった。
ネズミ一匹だって貴重な食材だったことも少なくない。
そんな環境が十年以上も当たり前だったクライヴにとって、今手の中にある瑞々しい果実は、まるで夢のような代物だった。
よく熟した果実は甘くて美味い、と言うことを、まるで初めて体験したかのように、体が喜んでいる。
存外と子供のように正直に感情を表す青の瞳に、シドの喉がくつりと笑う。
しようがない、と言う何処かおおらかな気分で、シドは三つ目の果実にナイフを入れた。
「どうせ日持ちしない代物だ。食べたいだけ食べろ。腹を下さんようには気を付けろよ」
「ん」
口の中に果肉が入っているので、クライヴの返事は端的だった。
そんな彼に果実を差し出せば、濡れた手がそれを受け取る。
クライヴは先ず、果物の果汁を啜った。
半分に切り分けられた果肉の表面からして、水分が表面に膜を作るように艶やかだ。
切り口の端からじわじわと染み出してくるそれを吸い取って、こく、こく、と喉仏が動く。
蜜の一滴も無駄にしないように啜って、それから果肉に齧りついた。
しかし果肉は齧るほどに奥からじゅわりと多量の蜜が溢れ出し、クライヴの口元を濡らす。
────その夢中で蜜を啜る様子が、なんとも。
夜の秘め事に、熱を啜る姿をほうふつとさせて、シドは意識して明後日の方向を見た。
「う、ん。んっぷ……本当に、凄い果汁だな。幾らでも出て来る」
「あー……そうだな。だから沢山食っても、半分は水っ腹だ」
「ああ、だから下ることもあるのか」
「果肉がある分、マシとは思うがな」
持ち帰りの効かない果実なら、隠れ家で過ごす人々が食べるのは難しいだろう。
最近、隠れ家の皆から頼まれごとを引き受ける事が増えてきたようで、クライヴは多くの人に慕われつつある。
きっと彼らも嬉しいだろうに、と呟くクライヴに、そうだな、とシドは頷いた。
そんなクライヴの口元は、すっかり蜜で濡れている。
手許の果実はもう幾らもなく、クライヴなら一口で食べきってしまえる程度しか残っていない。
それでも果汁はやはり多く、クライヴの手のひらは果汁と果肉の欠片ですっかり濡れていた。
その果汁を、勿体ない、とクライヴの舌が舐めるを見て、シドは片眉を潜めた。
「行儀の悪い」
「なんだ、急に。そんな事気にした事もない癖に」
行儀云々など、子供の日々の躾に言うか言わないか、そんな程度だ。
手掴みで果物を食べるこの環境で、小奇麗にナイフで一切れずつ切り分けて食べる方が面倒だ。
そんなことはシドも分かり切っている癖に、急に妙なことを言い出したものだから、クライヴは眉根を寄せる。
それから、シドが浮かべる表情と、目の奥に燈るものに気付いて、口端が珍しく悪戯に笑う。
「……勿体ないだろう。こんな美味いもの、無駄にしたら」
そう言ってクライヴは、指を濡らす果汁に舌を当てる。
果肉を持って食べていたその右手は、焚火の照明を受けて、艶を持って光っている。
水とは違って、少しばかりの粘りを持った蜜は、クライヴの手をつやつやと飾って見せる。
クライヴは濡れた手のひらを口元に寄せて、ぢゅ、と蜜を啜る。
青の瞳はじっと目の前にいる男を見つめ、何処か挑発的な気配を滲ませていた。
───判ってやっているな、とシドも口の片端を笑むように歪ませる。
「生意気なことをするなよ」
「別に。何もしてない」
食べ物を粗末にしないようにしてる、それだけだ、とクライヴは言う。
しかし、向けられる青の瞳には、明らかな意図があった。
クライヴもそれを意識していることを隠さずに、蜜に濡れた手のひらを唇に当てて、音を立てて吸う。
今ならその手は、甘く滴る甘露の味がするだろう。
窄めた唇が必死に蜜を啜る様子と言うのを、シドはよく覚えていた。
搾り取るまで啜るのは得意な男だから、其処に甘露があれば、存分に味わい尽くして舐め取る。
そして顎を伝って落ちる雫は、掌に掬って、見せつけるように舐めて見せる。
それは目に見える服従の証でありながら、翻弄する側であろうとする、彼の意識的な挑発行為だ。
シドはクライヴの手首を掴んで、自分の方へと引き寄せた。
抵抗もなくされるがままに持って来たクライヴの手は、思った通り、蜜と唾液で濡れている。
その手のひらの中央に舌を這わしてやれば、自分で遊ぶのとは違う感覚に、ぴくりと指先が震えるのが分かった。
「……良く熟してるな」
「……ああ」
「で、こっちはどうなんだ?」
掴んだ手首を離さずに、目を見て問えば、クライヴは「さあ?」と含みを持った笑みで首を傾げた。
『シドに拾われてからまだ日が浅い頃、久しぶりに果実を口にしたクライヴに、ムラっとしたものが掻き立てられるシドクラ』のリクを頂きました。
零さないように啜ってる様子ってなんかえっちじゃないですか、と言う心。
かぶりつきで食べるのも良いですが、クライヴってなんだかんだ根っこの育ちが良いので、綺麗に食べそう。
指舐めたりはやっぱり環境が環境だったので、貴重な食料や水分は無駄には出来ない勿体ない精神。
しかしそう言う所から出て来る仕草のちょっとした所が、やらしく見えるものですね。