[ロクスコ]雨の奥つ城
何やら不穏な雲があるな、とは思っていた。
それでも進む足を急がせなかったのは、一重にこれまでの経験だったからでもあったし、反面、ロックにとってこの世界の理と言うものが未だ理解の外にあったからでもある。
空が重く暗い色をしていることは、この神々の闘争の世界に置いて珍しい事ではなく、寧ろ、天候については常時そんな様相をしているのだ。
快晴等と言うものは、歪の中の方がまだ見る機会がある。
そのくらいに、この世界は不安定で、空の安定感と言うものも、長年の経験が全く当てにならないレベルで予測がつかないものだった。
だから暗い雲を見上げても、雨が降ったとしても、それ程激しいものになるとは思っていなかった。
ところが、蓋を開けてみれば、バケツをひっくり返したような大雨だ。
森の中を散策と探検気分に歩いていたら、ぽつりぽつりと降り出して、其処から一気に雨脚が早まった。
空は雷でも孕んでいるのではないかと思う程の黒雲に覆われ、どざあ、と言う音が響く程の代物。
大きな広葉樹の下に隠れても、大粒の雫が葉枝の網を突破してくるものだから、傘にはならない。
足元は柔らかい土壌だった為に、あっと言う間にぬかるんで行き、視界の悪さも相俟って、ちょっと歩くだけで泥に足を取られて転ぶ。
泥沼の中に思い切り顔面を落とす羽目になって、ロックは心の底から後悔した。
これなら、さっき見かけた歪の中に避難して置くんだった、と。
雨は急速に育ったのに、それは中々通り過ぎてはくれない。
滝のようにな勢いの雨煙に覆われて、視界は見えない、鼻も利かない。
とうに全身は濡れ鼠になり、いっそ清々しいほどに諦めがついた。
とは言え、このまま寒い雨の中で、いつとも知れない晴れを待つ訳にもいかず、とにかく今降っている雨だけでも凌げる場所を見付けなくてはならない。
碌な視界がない中で、諦念と共に歩き続けていると、切り立った崖にぶつかった。
仕方なくそれを手伝いに進んだ先で、ぽっかりと空いた穴を見付ける。
獣の穴でも、魔物の穴でも良い、とにかく雨を凌いで、体を休める場所に使わせて貰おうと、中に入った所で見覚えのある人物を見付けた。
「スコールじゃないか」
穴の入り口から一メートル、ぎりぎり雨空の暗い外光が届く場所に、その少年は立っていた。
ロック同様、頭のてっぺんから足の爪先まで濡れそぼり、いつも着ているジャケットの首元の毛が萎んでいる。
濃茶色の髪は、いつも降りている前髪が掻き上げられて、額の傷が露わになっていた。
スコールはジャケットの肩を開けさせて、水を含んで重くなったシャツの裾を握り絞っている。
そしてロックの方を見遣ると、警戒を滲ませていた蒼灰色の瞳を微かに和らげて、「……あんたか」と言った。
ロックは頭に巻いたバンダナを解きながら、スコールの前へと近付く。
「お前もこの雨にやられたみたいだな」
「……最悪だ」
「同感」
ロックはバンダナを絞り、辛うじて水気を追い出したそれをタオル代わりに、自分の顔回りを拭った。
絞ったとは言え、たっぷりと水を含んでいるバンダナにまるで爽快感はなかったが、顔の雫がなくなっただけでも気分は違う。
それに加えて、こんな災難に遭ったのが自分だけではないと言うことに、勝手な共有感を得て笑う。
「ラッキーだったな。こんな穴があるなんて」
「……ああ」
「何かの巣か?」
「判らない。何もいないし、いた気配もない」
「ふぅん。崩落で出来たって訳でもなさそうだけど……巣だったけど放棄されたって所かな」
洞穴の壁を見渡しながら呟くロックだが、スコールは沈黙している。
穴の奥も今の所は静かなもので、スコールの言う通り、生き物の気配は感じられなかった。
ひょっとしたら息を潜めているだけかも知れないが、下手に薮奥を突ついて、雨の中へと追い出されるのも勘弁願いたい。
奥から何も出て来る様子がないのなら、一時、このまま間借りさせて貰うことにする。
ロックがちらと外を見ると、雨の激しさは幾分か落ち着いていた。
どうやら、一番激しいタイミングで、外を歩き回る羽目になったらしい。
運の悪い事、と思う傍ら、お陰でこの雨宿り先を見付けた訳だから、不運ばかりと言う気持ちは堪えておいた。
ともかく、雨がもっと小降りになるまでは、動く気にもならない。
ロックは岩の壁に寄り掛かって、適当な所に腰を下ろした。
「この世界で、こんなに激しい雨が降るとは思わなかったよ。でかい雲を見付けた時には怪しいなと思ってたけど、此処までとはなぁ」
「……大概、こういう世界は不安定だ。空もまともな気象条件で動いてない。雷雨でも吹雪でも、急に起きる事はある」
「じゃあ、雨だけで済んでるのはラッキーってくらいか?」
「……どうだかな」
ロックの言葉に、スコールはすげない返事だけを寄越してくれた。
スコールの他、全体の7割程の戦士は、過去にもこうした世界に召喚された経験があると言う。
だからロックのような新顔の面々に比べると、この常識を逸した世界に対して耐性があった。
時には天変地異の前触れかと思うような、次元の歪みが唐突に起こっても、即座に対応することが出来る。
ロックも此処で過ごすに連れて、多少なりと学習してはいるが、やはり経験と言うアドバンテージは大きい。
───それでも、こうした不意の天候不良に巻き込まれるのは彼らも同じなのだと言うことに、ロックはこっそりと安堵していた。
洞窟の中はひんやりとしていて、濡れた肌の体温をじわじわと奪っていく。
火が欲しいな、とロックは何か燃やせるものがあっただろうかと荷を探るが、燃料になりそうなものは軒並み湿気ていた。
洞窟の奥に行って巣穴の名残でもあれば利用できるかも知れないが、碌な灯りもない状態で、何が潜んでいるのか判らない最奥まで探る気にはなれない。
(どうしようもないか)
この状況で、雨に直接濡れなくなっただけででも幸運なのだ。
濡れた身体を温めたい、と言う贅沢は、我慢する他ないだろう。
(……人肌、なんてのもあるにはあるけど───歓迎されそうにはないな)
ちら、と見遣る同舟者は、吹き込みのない穴の入り口の傍で、じっと外を見詰めて立ち尽くしている。
その様子は、さっさと止めば良いのに、と濃い雨にうんざりとしているように見えた。
彼が今日はどんな用事でこの辺りにいたのかは判らないが、何にせよ、ロックと同じように、予定を潰された事には変わりないだろう。
世界や場所によっては恵の元と喜ばれるような雨でも、今この時にそれに巻き込まれた者達にとっては、望まぬ恵であるのは確かだ。
濡れたジャケットが鬱陶しいのか、スコールはいつも着ているそれを脱いでいた。
荷物になるのも邪魔なので、両手を塞がない為に、袖を腰に巻いて縛っている。
白いシャツは裾で絞られただけだから、全体がまだ水分を多く吸っていて、張り付いた肌を薄らと透かしていた。
身体のシルエットが普段よりも更にはっきりと浮き上がっていて、傭兵だとは言うが、まだまだ未完成な体躯をしていることがよく判る。
その雨を見つめるシルエットが、ロックが思っていたよりも、随分小さく見えた。
襟元を飾るボリュームのあるファーがなかった所為もあるが、外界からの光に仄かに照らされる横顔が、何処か幼く憂いに沈んでいるように見えたのだ。
引き結ばれた唇が、ともすれば泣き出すのを堪える子供を彷彿とさせた。
「スコール」
なんとなく、名前を呼んだ。
応答はないとも思っていたが、予想に反して、蒼灰色が此方を伺う。
外からの薄い光を受けて、彼の面を知ることは出来た。
なんだ、と問う瞳は、ロックが見慣れている通り、無感動を映している。
だがロックは、今し方見たばかりの、現実か幻か曖昧な横顔が残像を重ねているように見えた。
「雨は嫌いなのか?」
彼の詳しい事を未だ知り得ていないので、問う言葉を選ぶ余裕がなく、直球に訊く。
スコールは不審げに眉根を寄せたが、しばらくしてから短く答えた。
「……別に」
それは応にも否にも通じず、同時にどちらとも受け取れる言葉だ。
大抵、スコールが胸中にあるものを明確な言葉にまとめることを放棄した時のもの、とはジタンやバッツの証言である。
雨は当初の激しさから随分と和らいではいたが、雨粒は未だに大きい。
この洞窟の奥から、牙を剥き出しにした猛獣が出て来た、なんて事にでもならない限りは、出て行く気にはなれない。
ただ濡れた身体の体温だけがじわじわと下がって行くことが、この環境については不満だった。
────そう、だからきっと寒い所為だ。
水気を含んだ服、乾かない空気、外から滑り込んでくる冷えた雨風。
火を起こすことも出来ないから、冷えて行く身体に抗う術がなく、次第に冷気は深部体温まで下げていく。
人間の体はそうやって本来あるべき状態から逸脱へと傾くと、身の内側まで浸食されてしまうのだ。
(とは言っても、燃やすものもないし。やっぱり───)
ロックはもう一度手持ちの荷を探ったが、やはり火種に出来そうなものはない。
取り合えず、雨宿りを初めて時間が経ち、絞った服が多少はまともになってくれたことを願って、ロックはスコールの方へと近付いた。
「スコール」
「……」
「其処じゃ冷えるぞ。どうせ当分止まないんだから、見ててもしょうがない」
言ってロックは、スコールの手を引いた。
握った手は、微かに抵抗の力を示したように思えたが、もう一度腕を引けば素直について来た。
少し重い足がようやく洞窟の穴口から離れ、ロックと共に数メートル分奥へと進む。
あまり奥まで進んでは、洞窟そのものが持つ冷気に負ける。
外から届く光がまだぎりぎりで届く、其処まで来れば外からの風は届かなかった。
「ほら、座れ。いつまでも立ってたって疲れるだけだ」
「別に俺が突っ立っていようと、あんたには……」
「ああ、うん。ま、関係はないだろうけどさ」
肩を押して少し強引にスコールを座らせてから、ロックもその隣に腰を下ろす。
距離の近さに、スコールが半身を引くように逃げたが、構わずロックは寄り掛かってやった。
「おい、」
「こんな状況だ。ちょっと暖になってくれよ」
「ファイアで火でも起こせば」
「俺、魔法はからっきしなもんでね。マッチも燃料も軒並み湿気ってるから火は無理だ」
ロックが魔法を門外漢としているのは、スコールも知っていることだ。
この世界に来て、元々の仲間であるティナも加えて、学者肌気質の面々から少々レクチャーは受けたが、結局は大して身につかなかった。
ロックの言葉に、スコールは眉根を寄せた後、溜息をひとつ。
諦めのように、そろそろとロックの肩に体重が寄せられる。
濡れた服の感触はしばらく冷たかったが、段々と、その向こうにある人肌が混じるように伝わり始める。
「うん、良い湯たんぽだ。お前、結構温かいんだな」
「……それはあんたの方だろう」
「まあどっちでも良いさ。一人で凍えてるより、ずっとマシなのは確かだろ」
人肌の類を歓迎してはくれない性格であることは理解しながら、ロックは敢えてそう言った。
スコールは心なしか唇を尖らせて、不満とも取れる表情をしていたが、その唇が開くことはなかった。
ゆっくりと、溶け合うように、肩から伝わる体温がある。
水気と冷気で冷えていた身体が、触れ合った場所から段々と解れて来るような気がした。
いつであったか、期せず背中に追われて感じた温もりと、変わった所はない。
ロックにとっては心地が良いが、隣にいる彼にとってはどうだろう。
ちらりと見てみると、スコールは青灰色を瞼の裏に隠して、じっとロックの肩に頭を預けるように傾けていた。
(……そういや、誰だったかな。こいつが案外、寂しがり屋だって言ってたのは)
ジタンだったか、バッツだったか。
スコールのことを特に知っているのは彼らだが、ティーダやクラウドもそう言うことがある。
ひょっとしたら、長くこの闘争の世界を経験している者たちの間では、共通の認識なのかも知れない。
ロックはそろりと片手を挙げて、肩に寄り掛かるスコールの髪をくしゃりと撫でる。
濃茶色の髪はまだ水分を含んでいたが、それを踏まえても柔らかく、少々猫っ毛なのだと初めて知った。
(……もっとお前のことを知ったら、あんな顔してる理由を聞いても良いのかな)
飴をじっと見つめていた、独りぼっちの子供のような横顔を思い出す。
雨が苦手なのか、何か嫌なことを思い出すのか、それとも。
それらを知る為に踏み込むには、ロックはまだまだ、この少年のことを知らない。
しとしとと降り続く雨は、果たしていつになったら晴れるのか。
この少年があんな顔をするのなら、雨など早くに止めば良いが、肩に乗せられた重さは存外と心地良い。
もうしばらくだけ、この小さな洞窟の中で、独り占めしていたいと思った。
『ロクスコ』のリクエストを頂きました。
朗読会軸からのNTのロクスコは、警戒猫だったスコールが段々と懐いて来てるような感じがしますね。
NTのスコールは元の世界の記憶があるので、お姉ちゃん絡みの記憶もそこそこ取り戻せている訳で。
いなくなったエルオーネの帰りを待って、雨が降る石の家で決意をした時の寂しさとか、じんわり過ったりしてるのかも知れない。
ロックはまだそういうスコールの機微の詳細について知るほど付き合いが深くはないけど、なんとなくこいつ放っておけないなあってなると良いなあ、と思ったのでした。