ガーデンでの授業を終え、エルオーネが二人の弟と共に家に帰って間もなく、バラムの街には雨が降り始めた。
朝から空に曇が出ていた事は知っていたが、天気予報で『今日は雨が…』とは言っていなかった。
傘を持っていなかったエルオーネは、小さな弟達を濡らせる事にならなくて良かった、とほっと息を吐いた。
雨は時間が経つと共に、その足音を強めて行った。
最初はリビングでゲームをしてはしゃぐティーダとスコールの声に掻き消されていたのだが、少しずつ、キッチンで夕飯の下拵えをするエルオーネの耳に届くようになって来た。
刻んだ野菜を鍋に入れて、昆布出汁を取った水に入れて浸し置きし、シンクの片付けをして、エルオーネはキッチンを出た。
「また負けちゃった…」
「あいつは普通に『たたかう』使ったら、カウンターして来るんだよ。『まほう』でやっつけるんだ」
コントローラーを握ってしょんぼりするスコールと、得意げに攻略法を教えているティーダ。
楽しそうだな、と思いつつ、エルオーネは二人に声をかけた。
「スコール、ティーダ。洗濯物、片付けるから、手伝ってくれる?」
「うん」
「はーい」
スコールがゲームデータを保存して、ゲーム機の電源を落としたのを確認し、エルオーネは洗面所へ向かった。
洗面台の横に置いてある洗濯機は、蓋が横側についている。
これならスコールとティーダでも服を出し入れする事が出来るので、お手伝いも順調に捗るのだ。
スコールとティーダが交代で順番に服を取り出して、エルオーネが絡まりを解きながら籠に入れる。
全ての服を出し終わったら、バスルームに移して、取り付けの物干し竿に吊るして行く。
此処でもスコールとティーダは、交代でエルオーネに洗濯物を渡して行った。
空になった籠を元の位置に戻して、最後にバスルームの換気扇のスイッチを入れる。
これでよし、とエルオーネがバスルームのドアを閉めた時、くいくい、と小さな手がエルオーネのスカートを引っ張った。
「なぁに?スコール」
視線を落とすと、スコールがエルオーネを見上げている。
柔らかく笑んで訊ねると、スコールが洗面所の小さな窓に視線を移した。
「雨、一杯降ってるよ、お姉ちゃん」
「うん、そうだね」
「お兄ちゃん、傘持ってってないよ」
スコールの言葉に、エルオーネも、ああそうだ、と思い出す。
高等部になって授業時間が長くなったレオンは、まだガーデンに残っているが、時計を見ればそろそろ授業が終わる時間だ。
今日は珍しくアルバイトがないので、ひょっとしたら友人達とのんびり過ごすかも知れないが、過保護な兄の事だ、授業が終わったら直ぐに此方に帰ってくるだろう。
─────降りしきる雨が止むのを待たずに。
天気予報を信じて、エルオーネ達が傘を持って行ってなかったのだから、彼も持って行っていない。
仮に振ったとしても、直に止むだろうと思っていたのだが、今の様子を見る限り、雨雲はまだしばらくバラム上空に停滞するようだった。
ティーダも窓の外に視線を移す。
小さかった雨粒が、大きな水滴となって窓に残っていた。
「レオン、大丈夫かなあ……」
「お兄ちゃん……」
心配そうなブルーグレイとマリンブルーは、今にも泣き出しそうに見えた。
幾らいつも強くて頼りになる兄とは言っても、やはり心配になるのだ。
エルオーネは、二人の頭を優しく撫でて、膝を折って目線を合わせる。
「私、レオンに傘、届けに行くけど。スコールとティーダはどうする?」
「お兄ちゃんのお迎えするの?」
「うん、そう。二人は、お留守番してる?」
「お迎え行くー!」
ティーダが元気よく両手を上げて言った。
「スコールは?」とエルオーネが再度聞くと、「僕も」とスコールが言った。
「じゃあ、先に玄関に行って、長靴を履いてね。外に出ちゃ駄目よ?」
「うん」
エルオーネの言い付けに、スコールが頷く。
それから二人が揃って玄関に向かい、エルオーネは洗面所、リビング窓の施錠を確かめ、キッチンでは窓の施錠と火元をきちんとチェックする。
二階は今朝ガーデンに向かう時にレオンが確かめたから、きっと大丈夫だろう。
リビングと続きになっている玄関では、スコールとティーダが言いつけ通りにして待っていた。
早く早く、と急かすティーダを宥めながら、エルオーネは二人にレインコートを着せる。
「カエルさーん!」
「僕、ネコさん?」
「似合うよ、二人とも」
フードをかぶった二人の頭を撫でて、エルオーネは下駄箱横に立て掛けていた二本の傘を手に取った。
さあ、しゅっぱーつ。
エルオーネの明るい声に、二人も楽しそうに雨の世界へ踏み出した。
レインコート着たちびっ子は可愛い。
バラムの街に、色とりどりの花が咲いている。
それは右へ左へ進んで、それぞれの安らぎの家へと向かっていた。
その流れとは反対方向進んでいる花が一つと、その花の中を出たり入ったりしているカエルが一匹。
子猫は花の下にいて、花を咲かせた少女と手を繋いでいた。
「ティーダ、走ると転んじゃうよ」
「平気ー!」
エルオーネの言葉も構わずに、ティーダは雨に濡れた道をあちこち駆け回っている。
仕事帰りの大人とぶつかりそうになる度に、大人の方がおっとっととよろめいた。
それに気付かず駆け抜けてしまうティーダに代わって、エルオーネは何度も頭を下げ、スコールも一緒になってごめんなさいをする。
レオン、エルオーネ、スコール、そしてティーダの四人は、バラムでは有名な兄弟であった。
レオン達がまだクレイマー夫妻が経営していた孤児院にいた頃からの話である。
だから、擦れ違ったのが兄弟である事、雨ではしゃぐ無邪気な子供のやる事だからと、大人は皆許してくれた。
でも後できちんと叱らなきゃ、とエルオーネは駆け回るカエルを見て思う。
バラムのバス停留所に来ると、エルオーネは屋根の下に行って、傘を畳んだ。
「ふう……ちょっと肌寒くなって来たかな」
薄着の上に一枚羽織っているのだが、少し足りない気がして、エルオーネは二の腕を摩った。
それを見たスコールが、心配そうにエルオーネを見上げる。
「お姉ちゃん、寒い?僕の上着、貸してあげる」
「ありがとう。でも、大丈夫だよ。スコールが風邪ひいちゃうから、上着はスコールが着ていていいよ」
そう言って、安心させるようにエルオーネが笑うと、スコールも嬉しそうに笑顔を零す。
ぱしゃぱしゃと水が跳ねる音がする。
屋根の外で、ティーダが水溜りでステップして遊んでいた。
私もやったなぁ、なんて思いながら眺めていたら、つるん、とティーダがバランスを崩す。
「あっ」
「あ」
思わず声が漏れて、エルオーネとスコールの声が重なった。
ばちゃん、と一つ大きな水が跳ねて、ティーダが水溜りの真ん中で俯せに転んでいた。
エルオーネは傘を開いて、慌ててティーダの下に駆け寄る。
「ティーダ、大丈夫?」
「ティーダ」
「………うわああああああん!」
エルオーネとスコールの呼ぶ声に返って来たのは、盛大に泣く声だった。
大人達が何事かと振り返る中、エルオーネはティーダを起こして、屋根の下へと戻る。
閉じた傘を柱に立て掛けて、エルオーネはハンカチを取り出した。
ティーダはぐすぐすと泣いて、泥のついた顔を泥のついた手で拭こうとしている。
それを手で制して、エルオーネはハンカチでティーダの顔を丁寧に拭き取ってやった。
「ひっく…ひっ…エル姉ちゃーん……」
「冷たかったね、痛い所はない?」
「ひっく……うん……」
「痛いのない?ティーダ、ホントに痛いのない?」
心配そうに繰り返したのはスコールだ。
うん、とティーダがもう一度頷く。
良かったあ、とスコールも泣きそうだった顔を綻ばせた。
ぷしゅー、と音がして、停留所にバスが到着した。
スコールが其方を見て、ぱっと表情を変えて走り出す。
「お兄ちゃん!」
両手を広げて駆けていくスコールの先には、丁度バスから降りて来たばかりの兄の姿。
レオンは一瞬驚いた表情を見せた後で、すぐにそれを笑みへと変えた。
膝を曲げて、飛び込んできた弟を抱き留める。
塗れたレインコートから滴が移って、服が濡れてしまう事なんて、きっと彼にとってはごくごく些細な事に違いない。
エルオーネもティーダを連れてレオンの下へ急ぐ。
「お兄ちゃん、お帰りなさい」
「お帰り、レオン」
「ああ、ただいま。……ティーダ、どうしたんだ?」
まだ少し目元の赤いティーダを見て、レオンは先程とは違う意味で驚いた顔をした。
ティーダはごしごしと目を擦って、ころんだ、と言った。
「大丈夫か?」
「うん」
痛いのもない、と言うティーダに、レオンは「なら良かった」と笑って、ティーダの赤らんだ頬を撫でた。
「それにしても、どうしたんだ?お前達」
「どうって、レオン。こんな雨だもの。濡れちゃうと思って」
エルオーネが腕にかけていた大き目の傘を見せると、ああ、とようやく合点が行ったらしい。
弟達と違い、小さな子供ではないのだから、レオンがちょっとやそっとの事で体調を崩す事がないのは、エルオーネも判っているつもりだ。
しかし、万が一と言う事もあるし、兄は絶対に自分の体調不良を隠して、家事をして授業に出て、アルバイトもこなして……といつも通りに過ごそうとするに違いない。
それはエルオーネが嫌だった。
「あのね、お兄ちゃん。僕たち、お兄ちゃんのお迎えしに来たんだよ」
「レオンの傘、持って来たんだよ」
「ああ。ありがとう、スコール、ティーダ」
嬉しい事をしてくれる弟達に、レオンは唇を緩ませて、二人の頭を撫でる。
それから彼は立ち上がり、
「エルも、ありがとうな」
大きな手が、エルオーネの艶のある黒髪を撫でた。
もう小さな子供じゃないのに。
そう思いながら、エルオーネはくすぐったさで笑った。
花が二つ、並んで歩く。
子猫とカエルを、空から落ちる涙から隠して。
お兄ちゃん幸せ。子供のお迎えってなんか和むし、無性に嬉しい。
確り者のお姉ちゃんも、なんだかんだでお兄ちゃん子です。