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2020年08月08日
シェアハウスの管理人をしている人物───コスモスから、懸賞に当たったのでどうぞ、と団体旅行のチケットが贈られた。
半分が学生と言うコスモス荘の面々がこれに喜ばない筈もなく、折角だから皆で行こう、と言う話になった。
チケットによれば十名までは大丈夫との事なので、夏休みに入っていた学生たちは勿論、社会人組も休暇を取って行く事となる。
旅行先は有名なリゾート地で、海が間近に臨め、ホテルの敷地から直接ビーチに下りる事が出来る。
こうした好立地に学生の多くは遠慮なくはしゃぎ、到着早々、海に行こうと言う流れになった。
それぞれの泊まる部屋を確認し、荷物を置いた後、一部のメンバーは早速ビーチへ。
白浜で元気にはしゃぐ面々の為、他のメンバーは昼食を用意してから海へ向かう。
午前中にシェアハウスを出発してから、それなりに長い時間が移動に宛てられた。
それでも元気な者は元気で、その筆頭がティーダである。
文字通り、水を得た魚のように海で泳ぐ彼に付き合うのは、共に生活するうちにすっかり世話焼きが染み付いたフリオニールだった。
あの岩まで競争しよう、と言うティーダに強請られて、二回三回と浜と岩場を往復遊泳する。
水球部に所属しているティーダに、負けてなるかと気合を入れたフリオニールは、中々良い勝負を見せつけた。
───が、元々水に慣れ親しむ時間を長く持っていないフリオニールとティーダでは、泳ぐ事への疲労の蓄積具合が違う。
段々とフリオニールが疲れて行くにつれ、当然タイムも落ちて行き、
「───っはー!俺の勝ちぃ!」
「はー、はーっ……、ふぅ、はぁー……っ」
ゴールの目印役を引き受けてくれたジタンとバッツにそれぞれタッチして、水面から顔を上げる。
判り易い差で先着を決めたティーダがガッツポーズをしている隣で、フリオニールは息を切らせながら目元に張り付く前髪を掻き揚げた。
「よーし、もっかい行くっスか!?」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、ティーダ。流石に限界だ」
活き活きとして何度目かの再戦を提案するティーダに、フリオニールは待ったをかけた。
「悪いな、また競争するなら、他の誰かと頼む」
「ちぇーっ。ま、良いか。付き合ってくれてサンキュな、フリオ!」
「ああ。俺は少し休むけど、明日にでもまた競争しよう」
「おう!」
元気な返事をしてくれるティーダに手を振って、フリオニールは浜へと向かって泳ぎ出す。
ほんの数メートルを進めばすぐに足が届くようになり、疲れた腕の代わりに、これもまた重みの増した足を動かして、ゆっくりと浅い海底を歩いた。
浜へ上がった所で、お疲れ様、と声をかけられた。
見れば、ビーチボールを持ったティナとルーネスだ。
おーい、と海の向こうに声をかける二人は、どうやらティナの初めてのビーチバレーがしたいらしい。
浜に上がってきたティーダ、バッツ、ジタンを交えて、チーム決めのじゃんけんが始まった。
遊泳客で溢れた浜をきょろきょろと見回したフリオニールは、荷物置き場にしていたヤシの木の下に座っているセシルとウォーリアの姿を見付ける。
フリオニールが滴る雫を拭いながら其方へ向かうと、セシルもフリオニールを見付けて、用意したタオルを差し出す。
「お疲れ様、フリオニール。はい、タオル」
「ありがとう」
「水も飲んで置いた方が良い」
そう言ってウォーリアが水筒の水をコップに入れて差し出した。
ありがとう、ともう一度言ってコップを受け取ったフリオニールは、一息に中身を飲み干す。
タオルで髪を拭きながら、フリオニールはきょろきょろと首を巡らせた。
ティーダに急かされ、海へと繰り出す前に、荷物番をしているから行ってこい、と言った少年の姿が見当たらない。
成人組が来たので問題ないと思って離れたのか、それにしても何処に行ったんだろう、と思っていると、セシルがくすりと笑みを零して言った。
「スコールは散歩に行ったよ」
「えっ」
「探してたんだろう?」
「い、いや、」
何も言っていないのに、誰を探していたのかバレてしまった事に、フリオニールは顔を赤らめる。
あわあわと口を濁すフリオニールの後ろで、さくさくと砂を踏む音が聞こえ、振り帰ってみれば、金色の鶏冠頭───クラウドが両手に缶ジュースの入ったビニール袋を持って到着した所だった。
「お帰り、クラウド」
「ただいま。フリオニールは上がったのか、お疲れだな」
「はは……」
「ねえクラウド、スコールを見なかったかな。フリオニールが探してるんだ」
「え、さ、探してるって程じゃ。ただ、何処に行ったのかと思って」
「ああ、スコールなら向こうの磯の方に向かうのを見たぞ」
「だってさ」
セシルが促すように言って、更にクラウドが「あっちだ」と浜の向こうを指差す。
そんな二人にフリオニールが何度も首を巡らせた後、何とはなしに見守る姿勢を貫くウォーリアを見れば、うむ、と大きく頷かれた。
それが「行ってくると良い」と言っているように聞こえたのは、フリオニールの思い込みではないだろう。
なんとなく、行った方が良いような気がして、フリオニールはその場を後にした。
あれよあれよと流されて行った節もないではないが、しかし姿が見えない彼の事が気になったのも確か。
と言うのも、彼───スコールは人混みが好きではないから、遊泳客でごった返した浜海と言うのは落ち着かないものだっただろう。
ティーダに強請られる形で海岸行は受け入れたものの、遊ぼうと言う言葉はきっぱりと断り、荷物番をしていると言った。
それから大人組が来たので場を譲り、恐らくはセシルかクラウド辺りにも好きに過ごして来いと言われ、人気のない場所を探しに行ったのではないだろう。
海岸に沿って伸びている道を進んで行くうち、段々と人の気配は少なくなって行く。
遊びたい者は皆、ホテルから近い場所で楽しんでいるようで、行く道に擦れ違うのは海岸の散歩をのんびりと楽しむ人々ばかりだ。
その内に耳に届くのは白波の寄せて返す音だけになり、こう言う所ならスコールがいそうだと、辺りを回していると、
(────いた)
スコールはクラウドの言った通り、切り立った崖下の磯に立っていた。
風に揺れる濃茶色の髪と、オーバーサイズの白いパーカー、涼し気な水色のハーフパンツと、滅多に見ない開放的な格好。
崖の上に生えたヤシの木が傾いて、スコールのいる場所は木陰になっている。
緩やかな波と共に吹く冷たい潮風と合わせて、夏の陽射しが苦手なスコールには、良い休息所になっているのだろう。
フリオニールは濡れた足が岩を滑らないように気を付けながら、スコールの元へと向かう。
人の気配に気付いたか、濃茶色の髪が振り返って、駆け寄る青年を見付けた。
「フリオ、」
「スコール!」
名を呼ぶスコールに、フリオニールも名を呼んで返す。
直ぐ傍まで辿り着いて、フリオニールは岩場を跳ねて弾んだ息を整えながら、少し低い位置にある蒼を見下ろした。
「荷物の所にいなかったから、何処に行ったのかと思った。此処は静かで良いな」
「……ん」
笑いかけるフリオニールの言葉に、スコールは小さく頷いて、海岸線へと目を向ける。
遠くに走る遊覧船が通り過ぎていくのを、海の底とよく似た色の瞳が、ゆっくりと追い駆けていた。
なんとなくスコールの見ているものを追って、フリオニールも海へと向き直る。
まだ髪から雫になって落ちる海水を、肩に乗せたままのタオルで拭っていると、スコールが海を見ながら言った。
「ティーダの相手は、もう良いのか」
「ああ。今頃は多分、ジタン達も一緒になって、ビーチバレーでもしてるよ」
「……そう言えば、ティナがしたいって言ってたな。あんたは良かったのか」
「俺はちょっと、疲れてしまって。流石にあんなに泳ぐとなぁ」
「…まあ、そうだろうな」
スコールの言葉に、見られてたか、とフリオニールは苦笑する。
回数を重ねる毎に、体が温まってスピードを上げて行くティーダに対し、フリオニールは純粋に疲労が重なって行った。
段々と差が開いて行く様も見られていたと思うと、少し恥ずかしいな、とフリオニールは頬を掻く。
───と、つん、と何かがフリオニールの左手を掠めた。
何かと思って目線だけで其方を見遣ると、もう一度、つん、と言う触感と共に、スコールの右手の指先が触れている。
「……ス、」
「……」
名前を呼びかけて、ゆるりと向けられた蒼灰色に捕らわれて、言葉を失う。
じっと此方を見上げる瞳には、何処か拗ねたような気配があって、唇は物言いたげに尖っていた。
吸い込まれたように蒼を見詰めていると、すり、とスコールの身体が寄せられる。
触れていた手に指が絡むように重ねられて、フリオニールが恐る恐るとその手を握れば、嬉しそうに握り返される。
タオルの乗った肩に、こつんとスコールの額が乗せられ、猫がじゃれるようにぐりぐりと押しつけられた。
「……あんた、冷たい」
「そ、れは、まあ、泳いでたから…」
「……うん」
そうだな、と言って、スコールはそれきり黙ってしまった。
敷き詰められた岩の隙間を滑るように、打ち寄せた波の音が静かに響く。
数分前には絶えず聞こえていた、海辺ではしゃぐ人々の声は聞こえない。
一緒に遊びに来たシェアハウスの仲間の気配もなく、岩壁に隠されたこの磯場は、まるで密やかな逢瀬の為に用意されたかのようだった。
そう思うと俄かにフリオニールは緊張して、じっと寄り添う恋人の存在を意識せずにはいられない。
どうしよう、何か言った方が良いだろうか。
急に沈黙がぎこちなくなったような気になって、そんな事を考える。
でもスコールは静かな方が好きだから、このまま黙っていた方が、と思っていると、
「……フリオ」
「な、んだ?」
呼ぶ声に我に返って、フリオニールは佇む恋人を見た。
と、此方をじっと見上げる蒼灰色とぶつかって、どくん、とフリオニールの心臓が跳ねる。
フリオニールと違って海に入った訳ではないから、スコールの体は濡れてはいない。
しかし、上がる気温と散歩中に陽光に当てられた所為か、白い肌はほんのりと赤らんで汗を掻いている。
オーバーサイズのパーカーは前が開けられており、薄い胸元が大胆に曝け出されていた。
普段、厚着と言う程でなくとも、あまり肌を晒さないスコールにしては、今日は開放的な格好をしている。
だからだろうか、フリオニールは今のスコールが酷く無防備に思えてならない。
ごくり、と喉が鳴ったのは無意識だった。
フリオニールの喉元を伝い落ちた雫は、海水なのか、汗なのか、自身では判然としない。
そんな自分を自覚しながら、フリオニールは小さな声で言った。
「……ええ、と。……ホテルに、戻る…か…?」
陰になっているとは言え、海の傍でも、暑いものは暑い。
快適な場所の方が良いだろうと訊ねてみると、スコールは小さく首を横に振った。
「……此処で良い」
“此処が”良い。
フリオニールにはそう聞こえた。
戻ればその途中で誰かと合流するだろうから、それを厭ったのか。
それとも、帰る為の道程がもどかしかったのか。
どちらにせよ話は同じ事で、フリオニールはもう戻ろうとは考えなくなった。
そっと重ねた唇の潮の味を、スコールはじっと受け止めたのだった。
『夏めいたフリスコ』のリクエストを頂きました。
夏と言えば海。
海と言えば人目から隠れていちゃいちゃ。
まだ一日目だから一回だけで終わります。多分。多分。
家から車で一時間弱の距離を走った所に、森林公園がある。
一家が其処に行くのは、頻度としては半年に一度、あるかないかと言う所。
そう言う場所へのお出かけと言うのは、まだ幼い子供達にとって、ちょっとしたプチ旅行のようなものだった。
春か秋の過ごし易いタイミングで、レインとレオンが作った弁当を持って、ピクニックに行くのだ。
毎回行かなくてはいけない、と言うような恒例行事にしている訳ではないのだが、レオンが生まれた時から足繁く通っているのも確かで、エルオーネの方はすっかり習慣として覚えていた。
スコールはようやく森林公園に“前も行った”と言う事を覚えて来た所で、姉や兄の「ピクニックに行くよ」と言う言葉にも喜ぶ仕草を見せるようになった。
街の真ん中にある家を出発し、ラグナの運転で郊外へと向かう。
立ち並ぶビル群を抜け出して、窓の向こうに畑の景色が増えて行き、それも通り抜けて緑一杯の世界に入って行く。
森林公園が近い事をアナウンスする看板を見付けて、エルオーネが弟に「もう直ぐだよ!」と言った。
スコールもわくわくとした顔で窓の外を見詰め、まだかな、まだかなぁ、と待ち遠しそうに兄に話しかけている。
レオンはそんな弟と妹の頭を撫でて、もう直ぐだから良い子にしていような、と言った。
くねくねと不規則に曲がる坂道を上り、拓けた場所に出る。
駐車場のマークがついている其処に車を停めて、一家は車を降りた。
一時間の運転に凝った躰を伸ばすラグナを、お疲れ様、とレインが労わる。
その間にレオンが車の後部トランクを開け、それぞれの荷物を取り出して、妹弟にも自分のリュックを背負わせた。
早く早くと遊びに行きたがる妹を宥め、こちらもそわそわとしているスコールとお互いに手を繋がせる。
それからレオンは、ラグナとレインに荷物を届ける。
「これで全部かな」
「ええ」
「じゃあ行こうぜ!」
「わーい!」
「わぁい!」
号令をかけたラグナの声に、エルオーネが弾んだ声を上げた。
この森林公園は自然体験を目的とした設備が揃えられており、都心で暮らす子供達の自然との触れ合い、学習を目的として運営されている。
キャンプ場やバーベキュー広場の他、木材でオモチャを作る体験学習の為の教室付きの建物や、土産売り場もある。
レオンは小学生の頃に授業でこの体験教室に行った事があり、その時に彼が作った木製のペン立ては、今もラグナの部屋で現役に働いていた。
時期的にエルオーネもそろそろ同様に授業が計画される頃で、エルは何を作って来るのかな、と言うのが両親の密かな楽しみであった。
休憩所が併設された建物のゲートを潜ると、その向こうは広い芝広場になっている。
子供達の目には何処までも続きそうな程の開放的な光景に、早速エルオーネが駆けだした。
「わーい!広い広い!」
「あ、あ、おねえちゃんまって!」
活発な姉が駆けだせば、手を繋いだままの弟も引っ張られる。
慌てて短いコンパスを動かして、スコールはエルオーネの後を追った。
エルオーネは自分が引く手がある事を思い出すと、走るスピードを落として、スコールの貌を見ながら芝の真ん中へ向かって走った。
「エル、前見ないと危ないぞ!」
「俺が行くよ。エルー、スコールー!」
弁当箱の入ったバスケットを抱えて、いつものように妹たちを追い駆けられないレオンに代わり、ラグナが小さな二人を追い駆けた。
大人の長い脚で追えば、小さな子供達はあっという間に射程距離に捉える。
ラグナが追って来た事に気付いたエルは、きゃあきゃあと楽しそうに声を上げながら、ラグナの手に捕まった。
「よいしょお!」
「きゃあー!」
「ふあう」
二人の子供をそれぞれ右腕と左腕を胴に回して、ラグナは気合の声と共に抱き上げた。
ふわりと宙に浮く感覚に、エルオーネがはしゃいだ声を上げ、スコールは慌てて父の腕に掴まった。
ラグナは子供二人を抱き上げで、ぐるんぐるんとその場で回転する。
エルオーネとスコールは、遠心力で振り回されるのを、ラグナの肩に掴まりながら楽しんだ。
「やー!目が回るー!」
「おとうさーん!」
「ぐーるぐるぐる~~~っ!」
「あははは!」
ぐるんぐるんと回る視界に、子供達がはしゃぐ声を上げた。
ラグナが一頻りその賑やかな声を楽しんでいる間に、レインとレオンも追い付いて、
「はあ~。回った回った。俺の目が」
「父さん、大丈夫か?」
「うん、平気平気。んじゃ先ずは昼飯かな?」
「そうね。時間もそれ位だし。木陰が良いけど、何処にしようかしら」
レインが芝広場の周囲を見渡すと、他にもピクニックに来たのであろう家族連れの姿。
午前をのんびりと出発し、正午も少し回った今になって到着したから、木陰の良さそうな場所はもう先客が着いている。
が、レオンが「あそこは?」と指差した場所にはまだ空きがあった。
若芽の目立つ木の下にレジャーシートを敷き、レオンが抱えていたバスケットを下ろす。
蓋を開ければ綺麗に並べられたサンドイッチと、タッパーに詰めたポテトサラダが現れ、エルオーネとスコールがきらきらと目を輝かせた。
頬にジャムをつけながら食べるスコールを、レオンが甲斐甲斐しく世話をしながら自身も食事を進めていく。
エルオーネは終始お喋りで、昨日ね、学校でね、とラグナとレインに日々の報告を伝えた。
毎日事件が起きて忙しいエルオーネの報告を、ラグナはうんうんと相槌を打って聞いている。
そんな賑やかな食事は、綺麗にバスケットを空にして終わった。
食事が終われば、遊びの時間だ。
一番活発なエルオーネがレジャーシートを離れたので、レオンも直ぐに後を追う。
「レオン、あれ見て、あそこ」
「なんだ?」
「川!橋!」
生い茂る木々の向こうを指差すエルオーネ。
其処には彼女が言う通り、澄んだ川が横たわり、その上を一本の長い橋が横断していた。
「…吊り橋かな?」
「吊り橋!渡れる?」
「多分。ほら、人がいる」
レオンが吊り橋の向こうに見える親子の人影を指差せば、エルオーネの黒い瞳が益々輝いた。
「行きたい!ね、行こう」
「待って。父さんと母さんに言ってからだ」
「はーい。ねえ、吊り橋あるよ!吊り橋行こう!」
レオンに行きたいのなら伝えてからと促され、エルオーネは両親に駆け寄りながら、その間も惜しいと大きな声で希望する。
昼ご飯を終えて、母の膝で日向ぼっこをしていたスコールをあやしつつ、今日は何処で子供達を遊ばせようかと相談していたラグナとレインが顔をあげる。
「何?吊り橋?」
「あっちにあるの!ねえ、行きたい!」
「人が歩いてるから、渡れるみたいなんだ」
「そんな所あったんだな。よし、ちょっと行ってみっか」
「スコールも行こ!」
「おにいちゃんとおねえちゃんもいく?」
「ああ、行くよ」
兄と姉の真似をしたい盛りの末っ子は、頷くレオンの言葉を聞いて「いく!」と言った。
母の膝から降りて靴を履く傍ら、レオンとレインでレジャーシートを簡単に畳んで鞄に詰めた。
その間にラグナとエルオーネが広場の隅に立てられていた案内板で地図を確認する。
芝広場から吊り橋のある場所まで、道なりに進んで二本目の矢印案内の所で、上り坂を選べば良いとのこと。
上り坂と言っても緩やかなもので、芝広場のあった場所から、それ程勾配差はないようだ。
途中で親子連れと擦れ違い、怖かった、面白かった、と言う子供の声を聞く。
それを聞いたエルオーネが、早く早くとラグナを急かし、大きな手を引いて坂道をどんどん上って行った。
強い日の光を遮ってくれる木々に守られながら進み、辿り着いた吊り橋は、幅二メートルの大きなもの。
川を挟んだ反対側の山へと繋がるそれは、元々は木と綱で造られたもので、森林公園が整備されるに当たって鉄筋で補強された橋だった。
「すごーい、吊り橋だ!」
「こりゃ中々年代モンだなぁ。でも、ロープも太いし、補強されてるし。きちんと手入れされてるみたいだから、大丈夫かな」
「すごいすごい、レオン、スコール、見て!川が見えるよ!」
後ろを追う形で近付いて来る兄弟を、エルオーネが呼ぶ。
姉に呼ばれたスコールがぱたぱたと走って行く───が、橋まであと一メートルと言う所で、その足がぴたっと止まった。
追い付いた兄が「どうした?」と声をかけると、すすす、と小さな体が兄に身を寄せる。
「スコール?」
「おちちゃいそ……」
「ああ……はは、そう見えるよな」
スコールが俄かに感じた恐怖を、レオンも直ぐに理解した。
エルオーネが言った通り、吊り橋は並べられた踏板に隙間があるし、側面も組まれたロープで落下防止の柵になってはいるものの、子供の体ならするりと潜り抜ける事が出来るだろう。
実際には橋桁も側面も鉄網格子で覆われ、頑丈なケーブルで補強されているので、子供の体でも潜る事は出来ないのだが、遠目に見ているスコールに鉄網は見えなかった。
見えても下が透けて見える事には変わりないから、スコールにとって補強の有無はあまり意味がないだろう。
本能的な落下への恐怖か、動かなくなってしまったスコールを、レオンが手を引いて促してみる。
が、スコールはその場に踏ん張って、いやいやと首を横に振った。
そんな弟とは対照的に、エルオーネはラグナと手を繋いで、そろそろと吊り橋第一歩にチャレンジしている。
「うん、しょっ」
「ほいっ」
大きな足と小さな足と、揃えての第一歩。
補強のお陰で吊り橋らしい揺れる気配もないのを確かめて、ラグナもこれなら大丈夫だと判断し、娘と手を繋いで進んで行く。
「ひゃ~、高ぁい!」
「そうだな~」
「あっ、お魚!」
足元を流れて行く川を見下ろしながらはしゃぐエルオーネに、強いなあ、とラグナは思う。
その一方で、後ろを見ると、スコールがレオンと手を繋ぎ、初めての吊り橋チャレンジをしている所だった。
「ほら、行くぞ、スコール」
「ん、ん」
「やっぱりやめる?」
「うゅ……」
涙目で兄にしがみつく末っ子に、レインがリタイアを提案してみるが、スコールはふるふると首を横に振った。
蒼い瞳が、橋の中央で楽しそうに過ごす父姉へと向けられる。
自分の足では怖くて進めないけれど、家族が見ている景色を、スコールも見たかった。
元々の慎重な性格もあって、中々一歩が踏み出せないスコール。
そんなスコールに、ラグナは大きな声で応援した。
「スコール、大丈夫!スコールなら出来る出来る!」
「スコール、がんばれ~!」
ラグナの声を聞いて、エルオーネも弟を応援する。
橋の真ん中で、こっちにおいでと大きく手を振る父と姉に、スコールはぎゅうっとレオンの手を握って唇を引き結ぶ。
そぉ……と小さな足が伸ばされる。
ちょん、と爪先が踏板を触って、直ぐに引っ込んだ。
それからもう一度足が出て、ちょん、ちょん、と爪先で感触を確かめ、恐々と足の裏が乗せられる。
良いぞ、と励ますレオンも、スコールと同じペースで橋に足を乗せた。
その反対側ではレインがいて、スコールは右手をレオンと、左手を母と繋いで、慎重に一歩一歩を進めていく。
ふとすれば床板が抜けてしまうんじゃないかと、そんな想像と戦いながら新たな世界に踏み入れたスコールを、ラグナとエルオーネはぎゅうと両手を握って見守った。
スコールが橋の四分の一まで来た所で、エルオーネが走って弟の下へ向かう。
「スコール!」
「おねえちゃ、」
「がんばったね~!」
駆け寄って来た姉と、その後ろをついて追って来た父を見て、スコールの表情がほわっと和らぐ。
エルオーネはそんなスコールの頭を両手でくしゃくしゃと撫でて、弟の決死の頑張りを褒めちぎった。
ラグナがスコールの身体を抱き上げる。
ただでさえ吊り橋の上で視線が高かったように思えた世界が、更にもう一段階高くなって、スコールはラグナの首に掴まった。
ラグナはそんな息子の背中をぽんぽんと叩いてあやし、小さな身体をしっかりと両腕に抱いて、遮るもののない自然の景色を見せてやる。
「ほら、スコール。良い眺めだろ!」
「ふぁ」
ラグナに促され、スコールが首を巡らせれば、遠く伸びる川と、山の豊かな緑が世界を覆い尽くしている。
都会の真ん中で生まれ育ったスコールには、テレビの世界でしか見た事のなかった光景だ。
蒼の瞳が丸々と開かれ、焼き付けんばかりに見入るその姿に、頑張った甲斐はあったのだとラグナは思った。
お魚さんがいるよ、とエルオーネが川面を指差して、レオンがその陰を一緒に探す。
橋下を見下ろすのはスコールにはやはり怖いようで、ラグナが見ようと言っても首を横に振った。
代わりに父にぎゅっと抱き着いて、飛び行く鳥を捕まえようと試みる。
届く筈もない小さな手が、それでも嬉しそうに横切る影を追うのを見て、レインは夫と顔を見合わせてくすりと笑った。
初めての吊り橋チャレンジ。
怖いけど置いて行かれたくなくて頑張ったスコールでした。
中で溶け合う瞬間に、今が夢ではないのだと、そう思っているのが自分だけではない事を、彼は気付いているだろうか。
何度目の触れ合いになるのか、そろそろ片手が埋まる筈だが、はっきりと思い出す事は出来なかった。
そんな事に意識を割いている暇があるのなら、腕の中で強張る躰を抱き締めていたいと思う。
「あ…あ……っ」
最後の余韻を示すような声が漏れて、ラグナの首に縋っていた腕から力が抜ける。
引き締まった腕がぱたりとシーツの海に落ちて、はあ、はあ、とあえかな吐息が零れて消える。
濃茶色の髪が散らばって広がる光景が、酷く扇情的で現実味のない景色に見えて、ラグナはほうと息を吐いて目を細めた。
まだ強張りの抜けきらない感触から、ラグナはゆっくりと自分自身を取り出した。
レオンが緩く首を振る仕草を見せたが、疲れ切った身体がラグナを追う事はない。
ただ、蒼の瞳が少し寂しそうにしているのが判ったから、ラグナはそっと青年の頭を撫でて、傷の走る額にキスをした。
「ラグ…ナ、さん……」
力なく恋人の名を呼ぶ唇は、何度もラグナが吸った所為で、ほんのりと赤い。
ラグナがその唇に指を掠めると、ふ、とレオンの目尻に笑みが滲んだ。
形の良いレオンの唇を、なぞり擽り遊んでいると、ベッドに投げ出されていたレオンの腕が持ち上がる。
その手がするりとラグナの髪を梳いた後、ゆっくりと頬へと触れる。
若々しい雰囲気を持っと言われるラグナではあるが、加齢の現象は確かにその相貌にも浮かんでいた。
レオンの指はその痕跡を探すように、すり、すり、と丹念な仕草でラグナの頬を撫でている。
「……」
「ん?」
「………」
見下ろす男を、レオンはじっと見詰めている。
そんなレオンに、ラグナが顔を近付けてみると、レオンの目は嬉しそうに細められた。
ラグナの半分をようやく越えた頃の青年は、いつも一分の隙を見せない程に出来た人物だ。
けれど、肌を重ねて抱き合った後、レオンはまるで小さな子供のように、素直で甘えん坊な一面を見せる。
重ねた情交によって、理性も矜持も溶かされた後だから、彼の一番柔らかい部分が曝け出されているのだろう。
きっとレオンの核に一番近い場所だから、ラグナは殊更優しく、レオンに触れるように努めていた。
レオンの手がもう片方も持ち上がって、ラグナの頬を包み込む。
耳の縁に指先が触れるのがこそばゆくて、ラグナがふふっと笑うと、伝染したようにレオンの口元も緩んだ。
「ラグナさん……」
「うん」
「……ラグナ…」
「うん」
レオンはラグナの顔を撫でながら、其処にある存在を確かめるように、何度も恋人の名前を呼ぶ。
何かある訳でもなく、ただ名前を繰り返すレオンに、ラグナは短い返事を返してやった。
放って置けばいつまでもラグナの顔を撫でているであろうレオン。
ラグナはそんなレオンの背中を抱いて、起き上がるようにと促した。
レオンがラグナの肩に掴まったので、二人でゆっくりと体を起こす。
ベッドの上に向き合って座った格好になると、またレオンの手はラグナの顔へと移動して、ぺた、ぺた、と掌でラグナの顔の形を確かめた。
「レオン」
「…はい」
「俺の顔、好き?」
「……はい」
ラグナの問いかけは唐突なものだったが、レオンはその意図を確かめる事もなく、素直に頷いて答えた。
「一番好きな所ってある?」
「…一番、ですか?」
「うん。俺の顔で、一番好きな所」
続けた問いかけに、レオンはうぅん、と首を捻る。
ひた、とラグナの額にレオンの手が触れて、長く伸ばされた前髪をそうっと撫で上げる。
さらさらと指の隙間から零れ落ちて行く黒髪を眺めた後、レオンの手はラグナの眉へと触れた。
整った形を指先がそっと辿り、生え際まで来ると、直ぐに下にある目尻へ。
ぱち、ぱち、と瞬きをするラグナの邪魔にならないように気を付けながら、レオンの指はゆっくりとラグナの涙袋の縁をなぞった。
「……目……」
「目?」
「……綺麗な碧色で、きらきらしていて、好きです」
そう言って、レオンは眩しそうに目を細めた。
じっと見つめる瞳から、愛しいと言う感情が惜しみなく溢れ出す。
ラグナはそんなレオンの顔をじっと見つめ、ゆるりと笑みを浮かべて、
「そっか」
「はい」
「俺も、レオンの目、好きだなぁ」
お返しにとレオンの好きな場所を告白すると、レオンの頬がほんのりと赤くなる。
恥ずかしそうなレオンは目を逸らしたがっているようだったが、そうすると自分がラグナの顔が、眼が見れなくなるので、もどかしい葛藤が生まれたらしい。
逃げては戻る、向かう先の定まらない蒼灰色に、可愛いなあ、とラグナはくつくつと笑った。
結局レオンは、またラグナと向き合った。
照れ臭さより、ラグナの顔を見ていたいと言う気持ちが勝ったようだ。
もう一度レオンはラグナの顔に触れて、火照りの落ち着いた肌をそっと撫でる。
滑って行く指先が、小さなピアスの穴が開いた耳朶を掠めて、そのまま後ろへと流れて行く。
項にかかる髪の隙間に指が、手が通って、レオンの腕がラグナの首へと絡み付いた。
ラグナは、近付いて来るレオンの顔をじっと見詰めて、その唇を迎え入れる。
「ん……」
柔らかな感触を確かめるように、レオンはラグナの唇に長い間触れていた。
薄く開かれた蒼の瞳が、長い睫毛の隙間から覗くのを、ラグナはじっと見詰めている。
熱に浮かされ、一度蕩けた甘い瞳。
眠って目覚めればきっといつも通りの冴えた光を帯びる宝石は、今夜のうちはラグナの虜であり続けるだろう。
普段は人目もあって具に隠しているその感情が、止める事を忘れたように溢れ出す様が、ラグナは好きだった。
だからラグナは、レオンの目が好きなのだ。
どんなに隠す事に長けていても、本当は何よりも正直な瞳だから。
満足するまでラグナを感じて、レオンはようやく唇を離す。
「は…ふぅ……」
「満足した?」
「……少し」
ほうっと息を吐いたレオンにラグナが訊ねれば、レオンは微かに頬を赤らめて答えた。
だが、瞳の奥には、不満とまでは言わずとも、物足りなさげな色が滲んでいる。
ラグナはレオンの頭をわしわしと犬を撫でるように掻き混ぜた。
柔らかな毛質の髪が、ラグナの指の隙間からぴんぴんと跳ねている。
レオンは掻き撫ぜる手を大人しく受け入れて、くすぐったそうに目を細めて笑っていた。
そんなレオンに釣られるように笑いながら、ラグナはレオンの頬に口付けた。
突然の事に驚いたように目を丸くするレオンに構わず、何度も触れては離れて、レオンにキスの雨を贈る。
「ラグナさん、」
「ん~?」
「ふふ……」
恥ずかしがるかと思いきや、レオンは上機嫌だった。
照れ臭いのか未だに頬は赤かったが、ちょっと待って、とも言わないので、ラグナも構わず続ける。
これは反って朝になってからの方が大変かも───と理性を取り戻した時のレオンの慄く様を想像したラグナだったが、目を閉じて口付けを享受する青年の姿に、それもまた良いかと思う事にした。
目一杯にレオンを愛でるラグナだが、幾ら触れてもまだ足りない、と思う。
「んー……な、レオン」
「はい」
「もう一回して良いか?」
瞼に口付けながら言ったラグナに、レオンは「え、」と小さく声を漏らした。
ラグナは唇を離して、レオンの顔を見て訊ねる。
「駄目か?明日も仕事あるしなぁ」
「それは、その。そうですけど」
「一回だけでも?」
駄目かなあ、と言うラグナの顔は、眉尻を下げて弱った子供のようだ。
レオンが自分のそんな表情に弱い事を、ラグナは知っている。
ちょっと狡い事してるよなあと思いつつ、レオンに自分を受け入れて欲しくて、そんな言い方をした。
するとレオンは、近い距離にあるラグナの視線から逃げるように俯いて、
「……別に、俺は…その…駄目とは……言ってない、です……」
レオンのその言葉に、ラグナはぱちりと目を丸くした後で、確かにそうだと小さく笑った。
明日も仕事があるし、明後日だってそれは同じだ。
ラグナはそれなりに歳を重ねているから、何度も出来ないし、遅くまで起きていれば疲れも残ってしまう。
だから二人の情交は、ゆったりと長い時間をかけた一回、二回で終わる事が多い。
お互いの事を慮っての事であるから、レオンもそれに不満がある訳ではないが、やはり改めてもう一度とラグナに求められるのは嬉しかった。
どちらともなく唇を重ねて、角度を変えて、深く舌を絡ませ合う。
ラグナの手がゆっくりとレオンの背中を辿って行くに連れ、蒼の瞳がまたとろりと溶けて行く。
其処に映り込んだ碧色も、再び芽吹き始めた熱を露わに映し出していた。
しっとりしっぽりなラグレオ。
偶には好きな人に甘えたり好き好きって素直なレオンも良いんじゃないかなと思った。
普段はしっかりしているレオンが、甘えモードに入るとデレデレになるのが可愛いラグナも良いな。
スコールが手袋を外す瞬間を、ラグナは気に入っている。
スコールの手は、いつも黒の手袋を嵌めていた。
武器が起こす振動摩擦から皮膚を保護し、戦闘による汗やターゲットの返り血で愛剣を滑り落とす事のないように、そう言った目的で使用されている。
手の防護としての役割もあるから、それなりに頑丈で厚みのある物で、その手で握手をすると、スコールの手の形と言うのは判り難かった。
平時、決まった私服で過ごす事が多いスコールは、この手袋もセットで身に着けている。
SeeD服を着ている時は、コーディネートの問題なのか、黒の手袋は外している事も多いが、正式な式典の場で着用する際には、白手袋を嵌めている事もあった。
大体はそう言った具合だし、他者の眼を気にする性格もあって、人前に出る時にはいつもの服装だけでも一揃い欠かさず身に着けている為、スコールが人目に素手を晒している事は滅多にない。
だから、だろうか。
SeeD服を着用している時を除いて、スコールが手袋を外すと言う行為は、彼のスイッチの切り替えを暗喩しているように思えてならなかった。
今日もスコールはいつもの通りの服装で、ラグナの護衛に従事している。
彼がエスタに大統領護衛の任務と言う目的を負ってエスタに来たのは、三日前のこと。
それからスコールは、ほぼ24時間をラグナと同じ空間で過ごし、ラグナのタイムスケジュールに沿って行動している。
こうなるとスコールに構いたくて構いたくて仕方がないのがラグナである。
最近見え難くなって来た書類仕事と格闘しながら、なんとか隙間を捻出しては、傍で見守る格好になっているスコールに構い甘える。
初めの頃はそんなラグナを「仕事をしろ」と叱っていたスコールだったが、最近は諦めたらしく、あしらいながら仕事を再開させるように促すだけだ。
仕事よりスコールと話がしたい、なんて子供のような我儘を言う男に、スコールが「……俺も手伝うから」と言ったのはいつだったか。
それ以来、ラグナが溜まった仕事から逃げるように自分に構い始めると、溜息を吐きながら書類整理を行うスコールの姿が見られるようになった。
様々な分野から持ち運ばれ、積み上げられた書類の山を、スコールが締め切りが早い順に仕分けて並べていく。
先ずは今日中に目を通さなければならないものをラグナの前に置いて、隣に明日締め切りのものを置く。
ラグナがそれらの内容を確認、承認印を押している間に、スコールは後の締め切りとなっている書類を分野ごとに分けて行った。
スコールのこのサポートのお陰で、一山二山とごちゃごちゃになっていた紙束は、平たい山裾が幾つか残るのみとなる。
これも後々また追加されて山へと育って行くのだろうが、ともあれ、今日の内に済ませておくべき案件は、無事に全てが片付いた。
「は~、終わった!」
「……ご苦労様でした」
椅子の背凭れにどさっと体重を預け、大きな声で今日の終了を宣言したラグナに、スコールは書類束の端を机にトントンと落として端を揃えながら、短い労いを投げかけた。
ラグナは天井を仰いで大きく深呼吸し、肺に溜まった詰まりを吐き出して、体を起こす。
碧の瞳が、デスクの向こうで書類の枚数を確認する少年を見て、へにゃりと眉尻を下げて笑った。
「いつも悪いなあ、手伝って貰って」
「そう思うなら、俺が手を出さなくても良いように仕事をしてくれ」
「ご尤もで」
スコールのぴしゃりとした返しに、ラグナは苦笑いを浮かべるしかない。
ラグナが大統領として仕事をするに辺り、努力が足りない、訳ではない。
同様に、これまでエスタの文官として大統領補佐の仕事をしてくれていた人達が、その仕事をサボタージュしていると言う訳でもない。
今のエスタは、十七年の鎖国を解き、国際社会への復帰を果たす為、やらねばならない事が多過ぎるのだ。
前代の魔女の遺産による、望まぬ鎖国ではあったものの、結果としてそのお陰でエスタは外界と隔絶された平穏が保たれていた。
しかし、スコール達を初めとした異邦人の来訪は、今後も避けて行けるものではない。
魔女戦争と言う大きな出来事で、社会情勢は大きく動き、エスタもその波の中で開国した。
新たな時代として目を覚ました沈黙の国は、他国にとってみれば得体の知れない国とされ、エスタ自体も他国世論の常識との剥離が否めず、信頼を得るのも一苦労であった。
こうした事情で、様々な新しい案件が日に日に舞い込み、それに伴って書類が山となるのである。
スコールもそう言った事情は理解している。
だから、エスタの人間でもない、護衛として契約しているだけである事を理解しながら、ラグナの手助けをしているのだ。
機密的な文書まで当たり前のように紛れ込んでいる書類の山に、これで良いのかと溜息を吐きながら。
それもキロスやウォードを含めたエスタの文官が、スコールの事を信頼しているから、とも言えるのだが、本来の自分は部外者なのだから、もっと警戒して欲しいとも思う。
スコールが並べてくれた書類を、ラグナはパラパラと捲って見る。
今この場に残っている書類は、四日目以降の締め切りのものだけ。
これなら、明日から配達される新たな案件についても、少しは余裕を持って臨む事が出来るだろう。
それを確かめたラグナは、最近手放せなくなって来た眼鏡を外して、デスクの引き出しへと片付けた。
「よし。今日は此処までにして、帰ろうぜ」
「……ああ」
椅子から立って伸びをするラグナの言葉に、スコールも頷いた。
ラグナは内線で「そろそろ帰るよ」と言う連絡をしてから、執務室を出る。
人気の少なくなった廊下を進み、官邸の外へと出ると、キロスと、運転手としてウォードが車を用意して待っていた。
ラグナとスコールを乗せて、車が走り出す。
タイヤのない、浮力と揚力を利用して走る車は、エスタの平坦な道の造りと相まって、走行による振動が殆どない。
この感覚にも慣れたなあ、と思いつつ、ラグナは欠伸を漏らす。
「……眠いのか」
「んー、ちょっとな」
「……着いたら起こす」
「良いよ、そんなに時間かかる距離じゃないし。寝る前に着いちまうよ」
同乗者の気遣いに感謝しつつ、ラグナはそう返した。
スコールは「…そうか」とだけ言って、窓の外へと目を向ける。
蒼灰色の瞳が、官邸で書類仕事をしていた時よりも、剣呑さを帯びて、通り過ぎる景色を睨んでいた。
ラグナは十七年間の独裁政権を、ほぼ善政と読んで良い形で統治しているが、それは全体の割合で見て支持率が高いから言える事だ。
様々な利権やら何やらと言った柵は、エスタでも皆無ではない。
特に魔女戦争後に開国してからは、これまでの暮らしと否応なく変化が起きるであろう事も考えられ、拒否反応を示す国民もいる。
こうした理由から、ラグナ・レウァール政権を打倒しようと働きかける声も生まれ始めた。
時代の転換期とも言える今現在に置いて、こうした動きはあって然るべきものとラグナは捉えているが、故にこそ“護衛”の任を負ったスコールの責任は大きい。
大統領の護衛と言う任務を持っているスコールにとって、街を移動している時は、一層気が抜けない時間である。
エスタの街は複雑に入り組んでおり、路は上に下に斜めにと伸びており、その隙間を埋めるように高層ビルが生えている。
人が潜み易く、見付かり難く、何らかの仕掛けを施してもバレ難い場所。
そう言うポイントがそこかしこにあるから、スコールは全身の神経をセンサーのように張り巡らせて、通過する風景を見詰めていた。
────其処までしても、何事もなく二人は私邸に辿り着く。
それが護衛任務としては何よりの事だ。
「じゃ、また明日な、ウォード」
「………」
「判ってる、寝坊なんてしねえって。あっ、信用してねえな!」
「……」
怒って見せるラグナの声に、ウォードはくつくつと笑った。
黒い瞳がちらりとスコールを見て、ラグナを宜しく、と言う。
スコールはその声なき声は聞こえなかったようで、きょとんとした顔で首を傾げていた。
それでもウォードには十分な反応だったようで、じゃあな、と手を振ってハンドルを握り直す。
車は音なく滑り出し、門扉を越えて曲がった所で見えなくなった。
スコールの手で私邸の玄関扉が開かれて、ありがと、と言ってラグナは敷居を跨ぐ。
広さに反して人気が少ないのはいつもの事で、賑やかし事が好きなラグナではあるが、この私邸に限ってはこの静寂が心地良い。
「ふぅ~、ちょっと休憩だな」
「……ああ」
そんな遣り取りをして廊下を進み、二人はリビングへと入った。
ラグナはリビングの真ん中に据えられたソファへどさっと腰を落として、背凭れに沈む。
書類仕事で固まった肩から力が抜けて、気持ちも抜けたか、眼の奥がじんとした感覚に見舞われた。
目薬が欲しいなあ、と少しぼやける天井を見上げてながら思っていると、ぱさ、と軽い音が鼓膜に届く。
霞目を擦りながら首を巡らせると、スコールが上着を脱いでいた。
ファーのついた黒いジャケットがテーブルに置かれ、すっきりとした首回りのラインが露わになっている。
蒼の瞳は、今日一日嵌め続けていた黒手袋を見詰めており、左手指が右手袋の爪先を引っ張って、手と指の関節の締め付けを緩ませる。
手首を包む縁を捲るように持ち上げてやれば、傭兵と言う職業に反して、細い印象を与える節張った手首が露わになる。
指先に向けて縁を送り出すように添え押して行くと、手袋はするするとスコールの手肌を滑って、外された。
脱いだ手袋をジャケットの上に放り重ねて、スコールは左手の手袋も外しにかかる。
厚みのある手袋だが、作りは非常にしっかりとしていて、スコールの手の形にぴったりだ。
それが丁寧に手から剥がれて行く様子を、ラグナはじいと見つめていたが、
「……何か用か」
「ん?」
あまりにもじっと見詰めていたからだろう、スコールが眉間に皺を寄せてラグナを見た。
手袋はまだ指先が入ったままで、それを取るより、ラグナの方が気になる位、視線が煩かったらしい。
用があるなら言えと、蒼の瞳が声なく言いながら、スコールは手袋を取った。
丸まった手袋を惰性の手つきで伸ばし直すスコールを、ラグナは呼ぶ。
「スコール。こっちおいで」
「……」
来い、ではなく、おいで、と言う誘い。
スコールの眉間の皺がまた深くなったが、彼は手袋を机に置くと、素直にラグナのいるソファへと近付いた。
ソファの横に立ってラグナを見下ろす、スコールの手。
ラグナが何も言わずにその手を捕まえると、驚いたようにスコールの体が固まった。
振り払う事を忘れているのか、立ち尽くして硬直しているスコールの手を、ラグナは口元へと持って行く。
指先に柔らかく触れた感触に、蒼の瞳が丸く開かれる。
それを見上げてにっかりと笑いかければ、幼さの残る貌が真っ赤に染まって、ラグナは可愛いなもんだあと思った。
手袋を外す瞬間ってなんかとてもアレじゃないですかって言う話。
スコール自身は特に無意識に行っている行動に、ラグナが嵌っていると良いなと。
普段は頑なに手袋をしてそうなスコールだと尚更。
肌を重ね、互いの熱を分け合って、一番気持ちの良い所で相手の存在を確かめた。
一度や二度で終わらない濃厚な夜となったのは、数日振りの事だったから当然と言える。
必然的に、それだけ深く繋がった後で、スコールが意識を飛ばしてしまったのも、無理のない事だった。
レオンもまた、そんなスコールの寝顔を見詰めながら、ゆらゆらと心地の良い倦怠感に沈む。
それから、どれ程の時間が経ったのか。
窓の向こうに既に月は見えなかったが、空は暗く、朝の兆しは見えない頃。
水底からゆっくりと揺蕩い上るようにして、スコールの意識は浮上した。
(………?)
重い瞼を半分だけ持ち上げて、スコールはぼんやりとしていた。
額に当たる温かな感触に顔を上げると、すぅ、すぅ、と静かな寝息を立てている男の顔がある。
それを、レオンだ、と認識するのは早かったが、どうして彼がこんなに近い位置ににるのだろう、と言う事を理解するには十数秒の時間を要した。
するり、とスコールの背中に大きな手が滑る。
その感触を受けて、自分も彼も裸身であると知ってから、ようやくスコールは意識を失う以前の事を思い出した。
途端に赤くなる顔を、眠る男の胸に埋めて隠す。
ぐりぐりと、スコールの額を押し付けられたレオンは、小さくむずがる音を漏らしただけで、目を開ける事はなかった。
(……ああ、もう……)
褥の中、触れる熱に翻弄されて、スコールはあられもない声を上げていた。
そんな事まで思い出してしまった所為で、顔が熱くて仕方がない。
スコールはしばらくの間、レオンの腕の中で、じっと体の火照りが引くのを待った。
時計が見えないので時間が判らないが、スコールが気絶してから、まだそれ程時間が経っていないのだろうか。
何も入っていない筈の秘部に、レオンの感触が残っているような気がしてならない。
汗塗れになったであろう体は綺麗に清められているし、きっとレオンの事だから後処理もしてくれていると思うのだが、奥で彼を感じた時の名残は失われていなかった。
ともすれば、目の前にある顔を見ているだけで持ち上がってしまいそうな中心部を、静まれ静まれと言い聞かせて過ごす。
自己暗示が効いたかどうかは定かでないが、甲斐があったか、なんとかスコールの体は火照りを治めていく。
伴って頭も少し冷えた所で、スコールはレオンの胸に埋めていた顔を、もう一度上げた。
(……寝てる……)
其処にある男の顔をまじまじと見て、スコールは素直にそう思った。
自分とよく似た色の、けれど僅かに柔らかい余裕も灯した蒼灰の瞳は、瞼の裏に閉じられて見えない。
時間を思えば当たり前の事だが、スコールがその色を探す時、彼は直ぐに応えて此方を見てくれるのが普通の事だったから、今に限ってそれを叶えて貰えない事が、俄かに寂しさを誘う。
が、逆に言えば、スコールが滅多に見れないレオンの寝顔を拝む、絶好のチャンスでもあった。
彼と同衾するようになってから、何度も同じ夜を過ごしたスコールだが、スコールはいつも彼より先に寝落ちてしまう。
目を覚ますのは必ずレオンの方が先で、スコールが目を覚ました時には、ブルーグレイはいつも恋人を映して優しく微笑んでいた。
その瞬間がスコールはこっそりと好きだったのだが、いつも自分の寝顔を見ていると言うレオンに、恥ずかしいような悔しいような気持ちがあったのも確かだった。
(……今なら)
今なら見れる。
レオンの寝顔を、誰より近くで、見ていられる。
そう思うと、俄かにスコールの心が弾む。
途端にドキドキと煩くなった心臓が、レオンに気付かれる事のないように、スコールは息を詰めて宥めようと試みる。
余り収まる気配はなかったものの、レオンがすやすやと規則正しい寝息を零している事に安堵して、スコールはそろそろと腕を持ち上げた。
身体が密着しているから、自分の動きでレオンの眠りを妨げないよう、ゆっくりと。
秘密の行為をしているような気分で、スコールは目と鼻の先にあるレオンの貌に、そうっと掌を当てた。
長く伸びてレオンの頬に落ちている横髪を退かすと、すっきりと整った面が露わになる。
(……綺麗な顔だな)
見慣れた顔を、改めるようにまじまじと見つめて、スコールは素直にそう思った。
長い睫毛と少し釣り気味の目尻に、鼻は高く、薄く開いた唇の形も程好い山形を描いている。
眠っているから瞳の意志の強さは今ばかりは臨めないが、その代わり、無防備な口元の様子も相俟って、見る者に安らぎを感じさせる雰囲気がある。
スコールの手がレオンの貌を滑り、目元の涙袋に指が触れた。
下を向いている長い睫毛を掠めない位置で、外から内に向かってそのラインをそっとなぞる。
それから鼻筋を辿って降りて、顔のパーツで一番高さのある頂きに辿り着く。
つん、と其処を突いてやると、「……ん、」と小さく零れる声があったが、瞼はじっと降りたままだった。
(大分深く寝てるな。これなら……)
レオンは他人には勿論、スコールに対しては特に気配に聡い。
だから直ぐにスコールの視線に気付くし、スコールが求めている事を、本人が口にするよりも前に察知する。
以心伝心なんて、信じるのも眉唾だとスコールは思っているのだが、レオンに対してはそうも言えない気がしていた。
だが、こうしてスコールが触れていても、目を覚まさない程に深く眠っているのなら、今しか出来ない事がきっとある。
そう思うと、スコールの心臓が興奮したように煩く高鳴った。
(……ちょっと、だけ……)
興奮から荒くなりそうな鼻息を努めて堪えつつ、スコールはそっと首を伸ばした。
眠るレオンの唇に、そっと、触れるだけのキスをする。
ただそれだけの事なのに、レオンが眠っていると言う事が、スコールの心にそこはかとない緊張感を生んでいた。
「ん……っ」
「……」
「ふ…ん……、」
離れた感触が名残惜しくて、もう一度重ねる。
情交の最中のような深い口付けは流石に憚られたが、代わりにスコールは、何度も唇を重ねて離してと繰り返した。
満足するまでキスを重ねて行く内に、それでも起きないレオンの貌を見て、また心臓が躍る。
此処に触れたらどうなるだろう、と言うスコールの想いの表れに、頬に添えていた手が滑ってレオンの首筋を擽る。
起きないよな、起きてないよな、と何度も睫毛の位置を確かめながら、スコールはレオンの首筋に唇を寄せた。
「……ん…ぅ……っ」
窄めた唇で、ちゅぅ、とレオンの喉を吸う。
ぴく、とレオンの肩が微かに震えたが、スコールは構わずにレオンの首筋を愛し続けた。
身体を重ねている時、レオンはよくスコールの身体に痕を残す。
主には服で隠せる場所だが、時折興奮に任せて、鎖骨や手首と言った隠れ切らない場所に華を咲かせてくれる。
その事をスコールは何度か抗議しているのだが、事が始まってしまうと、スコールがそれを振り払う術はなかった。
レオンもそれを判っていて、スコールを蕩けに蕩けさせて、痕を欲しがる様を待っている事がある。
その度、わざと見える場所にキスマークを残されて、誰かに見られたらどうするんだと真っ赤な顔で抗議するスコールを、レオンは楽しそうに眺めていた。
偶にはあんたも、同じ気持ちを味わえばいい。
そんな気持ちで、レオンが普段全く隠す事をしていない首筋にキスマークを作ろうとするスコールだったが、
(……薄い)
レオンの首から口を離して、触れた場所を覗き込みながら、スコールは眉根を寄せる。
何度も繰り返し吸った筈なのに、レオンの首筋には薄らとした赤い点が残っただけだった。
部屋が暗いから見辛いだけなのかも知れないが、かと言って部屋の電気を点けて確認する訳にも行かないだろう。
もう一度したら、少しははっきり見えるようになるだろうか、と考えていると、背中を抱く腕がするりと動いて、寝癖のついた濃茶色の髪を梳くように撫でた。
同時に、瞳に映った男の唇が、緩く孤を描いている事に気付く。
「レオ、」
「可愛いことをしてくれてるな」
目を瞠ったスコールに、レオンがくつくつと笑いながら言った。
降りていた瞼はしっかり持ち上がり、蒼灰色の瞳が楽しそうに年下の恋人を見詰めている。
スコールの顔が、暗がりの中でも判る程、真っ赤に沸騰する。
咄嗟にそれを目の前の男から隠そうと、スコールは背を抱く腕を振り払って逃げようとした。
が、一足早くそんなスコールの行動を察知したレオンは、髪を撫でていた手でスコールの手首を捕まえて、自分より一回り細い体をベッドシーツへと仰向けにして縫い留める。
更に自分の体で檻を作るように覆い被さって、スコールの首筋へと吸い付いた。
「あっ……!」
ちゅう、と強く首筋を吸われて、びくん、とスコールの身体が跳ねる。
スコールの足元がばたばたと暴れて抵抗を示したが、覆い被さる男には何の効果もなかった。
レオンは構わずスコールの首筋を食み、組み敷いた肢体が抵抗を忘れるまでたっぷりと寵愛して、ようやく解放する。
そうして白い肌に残された赤い蕾を見下ろして、レオンの蒼の瞳がうっそりと悦に染まる。
「こうやるんだ。判ったか?」
痕を残したばかりの首筋を、レオンの指がそっとなぞる。
ぞくぞくとした感覚がスコールの背中を奔って、身体の奥に覚えのある熱が蘇る。
スコールは潤んだ瞳で組み敷く男を見上げた。
はあ、と熱を孕んだ吐息を零せば、その内情を既に覚っているのだろう、レオンの顔がゆっくりと近付いて来る。
その顔が酷く楽しそうにしているのが判って、いつから起きてたんだ、とスコールは聞きたかった。
しかし、問おうと開いた唇は、簡単にレオンのそれに塞がれて、呼吸すらも奪われるように貪られる。
こうなってしまえば、もうスコールにはどうする事も出来ない。
その夜、レオンは手本を示すように、幾つもスコールの躰に痕を残した。
対してスコールがレオンに残したのは、付けられたと知っているから気付く程度の淡色が一つ。
それでも、その一つの花を愛でるように、レオンが何度もそこに触れる事を、スコールは知らない。
寝込みを襲うスコールと、さていつから起きていたでしょう?なレオン。
どうやってもレオンの方が一枚も二枚も上手なレオスコ。
この後、スコールがムキになってレオンにキスマークを付けたがるようになる。
レオンはスコールが一所懸命つけたキスマークを鏡で確認して、ご機嫌になるんだと思います。