[16/バルクラ]ブラインド・マーキング
仕事をしていれば色々な所に出向くもので、其処には様々な匂いが存在しているものだ。
工業製品を扱っている工場に行けば、鉄の匂い、それが溶ける炉の匂い、製糸工場に行けばそれを染める薬品の匂い、食品加工工場に行けば、当然食べ物の匂い。
人と人が集まる場所においてもそれは同様で、生鮮食料品店に行けば野菜や生魚や出来立ての総菜の匂いがするし、スポーツジムにでも行けば、運動する人々の汗や体臭を感じるだろう。
洗濯に使われる洗剤だって、無香料を謡ってはいるが、それにも少なからず匂いと言うものは存在するのだ。
それは洗剤内に使われている薬品や、それの化学反応が作る匂いで、人の快不快に判ずるほど強いものではないので、指標にされる必要がない、と言う程度。
だから体質として、どうしても薬品類にアレルギーが出てしまう人間は、僅かでもそれが感じられると忌避反応を起こしてしまう。
世の中に、本当の意味で無臭と言うのは、まず滅多に存在しないと言って良いだろう。
匂いと一言で言っても、その中身は何万何億と言う種類がある。
人間は動物に比べると鈍い質ではあるが、それでも訓練次第で、その匂いを一つ一つ別のものと判別する事も出来る。
匂いは生き物にとって危険を察知する為の一つの指標であるから、その機能は決して馬鹿にして良いものではない。
野生動物は今もそれを頼りに身を守る術とし、特に目の見えない暗黒で生きる種にとっては、何よりも活かさなくてはならない感覚器官なのだ。
さて、人間は生物の中で匂いに鈍感なものだが、存外と繊細な匂いの差異を気付く事も出来る。
例えばコーヒー豆の違いであるとか、カレールーに使われたスパイスの種類であるとか、煙草のフレーバーの違いであるとか────日常に溶け込むそれらを、人間はきちんと振り分けられるのだ。
嗅ぎ慣れない匂いがするものであれば、それは「知らないもの」として日常的に触れているものとは別物だと判じる。
それは、毎日触れているものである程、敏感に感じる取る事が出来るだろう。
電車に乗っていつものように恋人の自宅へと向かう途中のことだ。
帰宅ラッシュの時間から少し外れて乗った車両の中は、椅子こそ埋まってはいたものの、通路はすいすいと歩ける程度に空いていた。
どうせそれ程間もなく降りるのだからと、吊革に捕まって立っていたクライヴだったが、その後ろから、突然甘い匂いが襲い掛かった。
人工的に強いそれが、香水の類だと悟るのには時間はかからず、ちょっと強いな、と思いはしたものの、気分を害すようなものでもない。
深くは気にせず目的駅への到着を待っていたら、電車が大きく揺れて急停止した。
踏切を越えて自殺をしようとした人間がいたらしく、幸いにも電車の急ブレーキは間に合ったが、お陰で電車の運行は大きく後れることとなる。
巻き込まれた人間は溜息を吐いて待つ他なく、結局、小一時間ほど車内に閉じ込められていた。
予定は狂ってしまったが、最中に恋人に連絡をしたので、あちらは止むを得ないと受け取ってくれた。
それから電車がようやく動き出し、やっと恋人の家に着くと、いつもの渋面に迎えられる。
「悪いな、電車が遅れて……」
「既に聞いた。ニュースにもなっている」
詫びるクライヴに、端的に答えるバルナバスは、到着の遅れを特に気にしてはいないらしい。
拗ねると後を引くんだよなと、そうはならなかったことに安堵しつつ、クライヴは靴を脱いだ。
到着したら先ずはやる事をやらねばと、クライヴは早速キッチンに入る。
二日前に詰め込んだ冷蔵庫の中身を確認すると、予想の通り、作り置きに使ったタッパーのみが消え、食材諸々はそのまま綺麗に残っていた。
電車に閉じ込められている間、時間を持て余すのも勿体ないと、考えておいたレシピに必要な材料を取り出す。
バルバナスはと言うと、対面式キッチンの向こうで、パソコンを開いてじっと液晶画面を睨んでいた。
普段と変わりないその横顔を見ながら、どうせ昼も碌に食っていないのだろうと、まともな食生活意識のない恋人のパターンを思い描きつつ、まずは栄養値の高いものを食わせようと決める。
野菜をヘタや芯まで無駄なく使い、タンパク質の豊富な鶏肉をメインにして、味付けについては簡素に。
何を食べるにしても大して表情が変わる所は見ないのだが、油ものと味の濃いものはあまり得意ではないらしい事は、色々と食べさせている内に分かったことだ。
薄味が良いのは健康を思えば良いことで、とは言え飽きないように───そもそも食に飽きると言う程、彼に執着もないのだが───工夫しながら調理をしていく。
鍋の中でスープをくつくつと似ていると、かたり、と音がした。
見ればバルナバスが席を立っている。
仕事をしていると、数時間でも微動だにせず座っている彼にしては珍しいことだったが、クライヴは特に気にはしなかった。
息抜きか気分転換か、偶にはそんな事もあるらしいと言う事は、極稀に見ることがあるので知っている。
そう言うものだとう、と思ったのだ。
───が、流石に後ろから伸びて来た腕が腹に巻き付いたのには驚いた。
「っバルナバス、」
他に誰がいる訳でもないこの場所で、そんな触れ方をしてくる人間は一人しかいない。
思いもよらなかった密着感が背中にやってきて、クライヴは一瞬動揺した。
背中に重なった男はと言うと、クライヴのそんな様子は気にも留めず、黒髪の隙間から覗く項に唇を押し付けている。
「おい、危ない」
「……」
「聞いてるのか、こら」
調理中に悪戯は怪我の下にしかならないのだから、勘弁してほしい。
図に乗せてはいけない、とクライヴは肘で背中の男の腹を押す。
しかしバルナバスと言う男は、そんな叱る声を気にもせず、ぬるりと生温い舌を項に当てて来た。
「ん……っ」
「……クライヴ」
低く耳に心地の良い声で名前を呼ばれると、否応なくスイッチが入りそうになる。
が、クライヴはぐっと歯を噛んで堪えると、腕を使って振り向きながら、密着する男を押し剥がした。
「料理中だ。危ないだろう」
「後にすれば良い」
「それこそそっちが後にしろ」
聞き分けのない子供を相手にしている気分で、クライヴはじろりと男を睨む。
と、男の方もクライヴに負けず劣らず、渋い表情で睨むように此方を見ていた。
どうも機嫌を損ねているらしいバルナバスに、クライヴは溜息を交えて、
「……一体なんだ。何か用でもあるのか?」
「………」
大概、この男はマイペースで此方の都合を考えない所があるが、幾つかのルールは順守してくれている。
調理中に邪魔をするのも、基本的にはしない事だ。
じゃれあいにしても程度は加減しており、精々甘えてくる所までだったのに、今日は明らかにその先を匂わせている。
ルール違反は明らかなので、仕方なしに理由を問うてみれば、バルナバスはまたも不満げに眉間の皺を深くした。
じっと睨む碧眼に、言葉が少ない男である事は重々承知しているクライヴだったが、やはり言うものは言ってくれないと分からない。
此方から切り崩しにいった方が早いかと思案していると、思っていたよりも早く、バルナバスの方が口火を切った。
「……貴様、何処をうろついて来た」
「何処って───別に、いつも通りに来たつもりだが」
最寄り駅から此処に来るまで、クライヴは特に寄り道した覚えはない。
まさか到着が遅れた事を指しているのかと思ったが、電車の遅れは先に伝えてあったし、事の次第はニュースにもなっていたとバルナバスが言っていた。
妙な疑いをかけられるような覚えはない、とクライヴが眉根を寄せていると、バルナバスは深々と溜息を吐く。
「気付いていないのか。自分自身の事だろう」
「意味が分からない。ちゃんと説明してくれ」
やはりこの男は言葉が足りない。
出会って何十回目になるか、そんな事を改めて実感しながら、クライヴはかみ砕いた説明を要望した。
バルナバスは、この男にしては珍しく呆れた表情を浮かべ、
「妙な匂いがしている。何処でつけてきた?」
「匂い?」
見るからに不快と言わんばかりに、眉間どころか鼻先まで皺を寄せそうなバルナバスに、そうも強い匂いがついているのかとクライヴは首を傾げる。
汗臭いのか、でも今日は汗を掻くほど暑くはなかったし、来るのは遅れたが走った訳でもないし、と腕の匂いを嗅いでみるが、特に感じるものはない。
バルナバスの言う“妙な匂い”を探してみるクライヴだったが、腕も襟も、シャツの胸元も確認してみるが、それらしいものは判らなかった。
そんなクライヴに、バルナバスは「鈍い奴め」と忌々しくも聞こえそうな声色で呟いて、
「背中だ。酷い匂いがする」
「其処まで言うか……でも、背中なんて別に────」
思い当たる節もない、と言いかけて、ふとクライヴは思い出す。
事故未遂で緊急停止した電車の中で、偶々後ろに立っていた乗客が、強い香水の匂いを振りまいていたことを。
その人物は、電車が急ブレーキをした際に、バランスを崩してクライヴの背中にぶつかっていた。
無論意図した事ではないし、ぶつかった本人からも詫びを貰ったし、突然のことだったのだからクライヴも気に留めていない。
だが、おそらくその時、擦れあった服に香水の匂いが移ってしまったのだろう。
それから小一時間は一緒にいたから、距離の近さも相まって、匂いが残ったのかも知れない。
「……電車の中で、近くに香水をつけていた人がいた。それだけだ」
「匂いがそうも移る程に密着していたとでも?」
「密着なんてしていないが……ぶつかったのはある。その後は閉じ込められていたからな。その所為だろう」
クライヴの言葉に、バルナバスはじっと睨むばかり。
心なしかその唇が尖っているようにも見えるが、そんな顔をされてもな、とクライヴは思う。
匂いの下となったであろう人とは、ぶつかった詫びと合わせて、お互いの不運に一言二言交わした覚えはあるが、その程度のことだ。
電車が動き出してからは背中合わせで立っていて、降りたのはクライヴが先で、その後の事は知らない。
その程度でしかないのに、疑うような顔をされても、弁明も説明もこれ以上するものはなかった。
クライヴは、それまでなんともなかった背中が、急にむず痒くなるのを感じた。
バルナバスの舌が触れた項も、心なしか擽る後ろ髪がくすぐったく思う位には、薄らとした熱が宿っている。
(これは、要するに……あれなんだろうな。縄張り意識と言うか)
この家の中は、バルナバスの為に誂えられたものしかない。
寝室、リビング、ダイニングに置かれた調度品は勿論、クライヴが来るまで碌に使われた形跡もなかったキッチンでさえ、バルナバスの為のもの。
クライヴが来るようになるまでは、主であるバルナバスの他は、秘書のスレイプニルくらいしか入った事がないのだ。
旧知だと言うシドでさえ、顔を合わせるのは専ら外で、十数年の付き合いで此処に入ったのは片手で数えて足りると言う。
そうまで徹底されていれば、此処に他人の匂いや気配が微塵のほどに感じられないのも無理はない。
其処にクライヴは他人の匂いをつけてやって来た訳だ。
クライヴ自身は特別に此処に来ることを許容されているが、かと言って、それ以上のものをまとわせて来ることを許可した覚えはあるまい。
“酷い匂い”とも言っていたし、種類問わずに香水の類を嫌う人間もいるものだから、バルナバスにとって余計に不快であったとすれば、意図していないとは言え、悪いことをした。
「悪かったな。飯を作ったら風呂を借りるよ」
「……」
「ついでに着替えも借りる。匂いはそれで少しはマシになるだろう」
これ以上の地雷を避けるなら、それが無難だろうとクライヴは思った。
取り合えずは、夕飯の支度だけは先に済ませておかなくては。
メインの下拵えが済んで、オーブンに入れたら、その間にシャワーを浴びよう────と思っていたクライヴだったが、その腰に太い腕がしっかと回る。
「バル、」
拘束される感覚に、まだ何か怒っているのかと名前を呼ぼうとして、塞がれた。
瞬きをすれば睫毛が擦れあうほどに近い距離で、碧眼が薄暗く熱の籠った色を灯している。
無防備にしていた唇の隙間から、ぬるりとしたものが侵入してきて、クライヴのそれを絡め取った。
耳の奥で唾液の交じり合う音がする。
それはしばらく続いた後、クライヴの呼吸も飲み込んで、ようやく離れて行った。
「っは……なんだ、急に」
足りなくなった酸素を取り込みながらクライヴが抗議すれば、腰を捕まえる腕が益々力を籠める。
離すものかと言わんばかりのその力に、これはもうこっちの話は聞かないな、と悟った。
後ろ手でコンロのスイッチを探り、火を消す。
近い距離にある緑の瞳が、ようやくほんの僅かに機嫌を直して、眉根の皺が緩んだ。
背中を滑る手が、其処にある目に見えないものを拭い取ろうとしているかのようで、少し擽ったかった。
これは多分匂いでマーキングしてた王。
ボディソープだったりシャンプーだったり、部屋のアロマとかだったり(用意したのは全部スレイプニル)を共有してる状態になっているので、知らず知らずにバルナバスと同じ匂いがするようになってたクライヴ。
なのにクライヴが自分のじゃない匂いをつけて来たので、ちょっとお怒りしたらしい。と言う話。