[ラグレオ]遠い面影に夢を見る
それを見付けたのは、偶然のこと。
引き出しの中にあるものを取ってくれと言われて、指定された場所を開け、探っている時に、何の気なく目に入ったものだった。
綺麗な銀色は、小さな傷がちらほらとあるものの、光沢は損なわれずに磨かれていたから、放置されている訳ではないことが判った。
反面、これを使うような場面があるのだろうかと、首を傾げた。
その時は詳細について聞く暇があった訳でも、深く考える必要のあるものでもなかったので、触れることなく引き出しを閉じている。
それからなんとなく、それの事が忘れられなかった。
使っていたことがあるんだろうか、何に使っていたんだろうか───と想像を巡らせてみるが、大概、それを使う場面と言うのは限られているように思う。
だが、レオンの想像の通りにそれを使っているのなら、相応の気配が漂うものだろう。
匂いであったり、キスをした時に感じる味であったり、そう言うものに、それは滲み出てくると聞く。
しかしレオンは、ラグナと愛し合うようになってから───もっと言えば、それ以前からも───、その手のものを感じた事がなかった。
何度目かの夜の交わりをして、倦怠感の中でベッドの中で微睡んでいる。
ともすればこのまま眠ってしまえそうだったが、隣にいる人はまだしっかりと起きているようで、レオンの頭を撫でる手は続いていた。
年齢差があるとは言え、どうにも子供扱いのようでレオンは聊か気恥ずかしいのだが、触れる手の心地良さにも抗えないので、いつもされるがままにしている。
外は今日もうだるように暑く、夜になっても気温が下がらないので、夜でも冷房が欠かせない。
子供の頃は夏と言ってもこうまで暑苦しくはなかった筈だが、最早、この暑さが当たり前にもなりつつある。
だから冷房を止める事は出来ないのだが、汗を掻いた肌に、ふわふわと当たる冷風と言うのは、少々寒さを感じさせてしまった。
それから逃げるように、傍らの温もりに身を寄せると、くすくすと笑う気配がある。
甘えん坊だとでも思われたのかも知れない。
そう思うと、また恥ずかしい気持ちも沸いて来るのだが、さりとて心地良さもやはり手放し難く、レオンは赤くなっているであろう顔を隠すように、すぐそこにある胸に鼻先を埋めていた。
と、そうして鼻腔をくすぐる匂いに、レオンはふと、ベッド横のチェストの中にある物のことを思い出し、
「……あの」
「ん?」
「…ラグナさんって、吸うんですか」
「お?何が?」
「煙草です」
レオンの言葉に、ラグナはぱちりと瞬きを一つ。
不思議そうな顔をして、「なんで?」と、問の理由を尋ねるラグナに、
「その、引き出しの中に、ライターのようなものがあったので」
「ああ、成程。そっか、アレか」
意図していなかったとはいえ、他人の私物を盗み見てしまった気がして、レオンは口籠りつつ正直に答える。
するとラグナは、心当たりに至ったようで、そうかそうかと納得した様子で言った。
「昔な。吸ってた事はあったよ。独身の頃だけど」
そう答えるラグナは、現在、男手一つで一人息子を育てている。
妻は息子を生んでから数年後、まだ幼い内に急逝してしまったそうだ。
その息子は今年で十七歳を数えているから、彼が独身の頃と言うと、少なくともその数字よりも前のことになる。
ラグナの年齢を考えると、人生の三分の一は昔のことになるので、古い話と言えばそうだろう。
ラグナが体を起こして、ベッドの横のチェストに手を伸ばした。
引き出しを開けて中を探り、取り出したのは、綺麗な銀色のオイルライターだ。
「これだろ?お前が気になったのって」
「はい」
ライターは意匠らしいものは見当たらないものの、澄んだ耀きを放っており、安価なものではない事は、その手のものに詳しくないレオンにも感じ取れた。
側面の隅に小さくブランドの刻印が刻まれている以外には、まっさらな銀色だ。
シックな印象を与えるそれは、シンプルであるが故に、洗練されたアイテムであると印象付けるだろう。
ほい、とラグナがそれを気軽に差し出してきたものだから、レオンも思わずそれを受け取った。
起き上がって代物を眺めてみると、それなりの重さもあって、───レオンにそれの品の真偽は判らないのだが───本物らしい存在感を感じさせる。
刻印の部分をよく見ると、シリアルナンバーと思しき数字も刻まれていた。
しげしげと銀色の小さな着火器を見つめるレオンに、ラグナは立てた片膝に頬杖をしながら言った。
「俺、昔はジャーナリストになろうと思って、色々書いたり、あちこち行ったりしててさ。その時に出来た伝手って言うか、知り合った人に、なんか気に入られちまって、やるよって言われて貰ったものなんだ」
「こんな高級そうなものを……」
「そうなんだよなぁ。でもその頃は、そう言う価値とか俺、全然判ってなくってさ。でも煙草は吸ってたから、有難く貰って、当分は使ってたんだ。物は頑丈だし、しっかり火がついてくれるから、何処ででも吸うのに困らなかったし」
その前は使い捨てを使ってたんだけど、とラグナは言った。
それから、でも、と続く。
「嫁さん出来て、子供が出来て。そうなると、やっぱ煙草止めなきゃなあ~って思ってさ。生まれる頃には、なんとか禁煙できたんだ」
「それからは、一度も?」
「いや。レインが死んだ時に、ちょっと戻っちまったな。けど、まだスコールも小さかったから……ああやっぱ駄目だって思って、なんとか我慢し直した。其処からは吸ってないな」
急逝した妻と、幼かった息子を思って、ラグナは煙草を辞めた。
仕事のストレス等から三度手を伸ばしかける事はあったが、なんとか堪えて、二度目の禁煙に成功。
以降は煙草を新たに買う事も勿論なく、このオイルライターが使われる事もなかったと言う。
「────でもさ、これ、高いもんじゃん?」
「……そうなんでしょうね。ブランド物のようだし」
「貰いもんだし、捨てるのもな~って。誰かにあげるってのも考えたけど、いないんだよな、俺の周りに今煙草吸ってるような奴」
「確かに、ウォードさんやキロスさんも、吸っている所は見たことがないですね」
「うん、あいつらも全然だよ。だからずっと此処に仕舞ってる。取り出すのは、時々、磨いたりする位だな」
ベッド横のチェストを指差すラグナに、どうりで綺麗な筈だ、とレオンも納得した。
小さな傷があるのは、昔使っていた頃の名残。
現在は、道具本来の役割としては使われることはなく、基本的には、チェストの中に仕舞われたままのもの。
それでも高級品だからか、頂き物だからか、放置しておくには聊か忍びなく、表面位はと思い出した時に簡単な手入れをしているのなら、こうも綺麗に残されているのも当然か。
「まあ、そんな感じでずっと此処に置きっぱなしだから、もう火もつかないとは思うんだよな。使うなら、ちゃんとメーカーに頼んで、色々交換して貰ったりしないと。でも、別に其処までの必要も感じなくってなぁ」
今やラグナにとって、このオイルライターは、若い頃の思い出だけの置物なのだ。
まだ向こう見ずな無鉄砲でいられた若い時代、口寂しさを誤魔化したり、原稿の内容を考えている時に、ぷかぷかと吹かしていた煙草、それを吸う為の必需品。
既に地に足のついた生活が板について、家族と自分の生活の為、敢えての不健康に手を出すのも辞めて久しい。
昔々は、息子の誕生日のケーキに火をつける為に使ったこともあったけれど、十七歳の息子はもうそれを望みはするまい。
いよいよ、ライターはお役御免となっていた。
この手の者は、個人的な収集家もいる為、フリーマーケットの方法で手放す人、逆に入手する人もいるものだろう。
しかし、ラグナはその手の手段に明るくなかったし、見ず知らずの人に、懇意で貰った物を渡すのも、少々抵抗があった。
捨てるとなるとまた少しばかり気が咎めたし、何より、処分の正しい方法が判らない。
既に長らく使われていないとは言え、適当に処分して良い代物でもないから、益々この扱いは宙ぶらりんになっているのであった。
レオンが眺めていたライターを返すと、ラグナはその蓋を片手で開け閉めして遊び始める。
キン、キン、と金属が当たる音がして、ラグナの手付きが慣れているのが見て取れた。
長らく使っていないとは言っても、若い頃の杵柄があるのか、ラグナの手はそれの扱い方を今も覚えているようだ。
レオンはその様子をじっと見つめながら、
(……どんな風に吸ってたんですか、なんて、聞くものじゃないか)
浮かぶ疑問が口をついて出そうになるのを、レオンは意識して堪えている。
そんな思考が浮かぶ理由を、レオンははっきりと自覚していた。
(……見て見たかった。この人が、煙草を吸っている所を)
どんな風に、どうやって、どのメーカーのものを愛用していたのだろう。
煙草も様々な種類があって、それを吸う時の手癖と言うのも、また人によって色々あるようだった。
レオンも煙草を嗜んではいないから、それは他者を観察している時に感じたものだ。
煙草の持ち方だったり、吸う時の仕草だったり、吐き出す時の顔だったり───それが、ラグナはどんな風だったのだろう、と勝手に想像が膨らんでいく。
ラグナの過去と言うものに、つい最近彼と逢ったレオンは、当然入って行くことが出来ない。
目の前にいるこの人のことを、全て知りたいと願っても、昔の事については、思い出話を聞くのが精々だ。
(かと言って、今もう一回吸ってくれ、なんて言う訳にもいかないな)
知りたいと思っても、家族を思って辞めたことを、自分の我儘で引き戻してはいけない。
自戒しながら、それでも知らないラグナを知りたい気持ちが抑えきれそうになくて、レオンはライターを遊ばせている恋人に体を寄せた。
肩口に頭を乗せたレオンに、ラグナは「どした?」と声をかけながら、濃茶色の髪をくしゃりと撫でる。
また甘えていると思われたらしい、が、レオンは今ばかりはそれに甘えることにした。
ラグナはライターをチェストの上に置いて、レオンの頭を抱えるように抱き込んだ。
レオンの頬にラグナの唇が寄せられて、近い距離から香るのは、間違いなくラグナの体臭だ。
煙草独特の匂いなど其処には当然ある筈もなく、本当にもう随分と昔の話なのだと実感する。
重ねた唇から伝わる味を確かめながら、レオンは次の熱に向かう体から力を抜いた。
元喫煙者なラグナも良いなと。頭ガシガシしながら原稿考えてた頃があったのかも知れない。
そんなラグナの今も昔も全部知りたいと思ってるレオンでした。