かえらなくちゃ、かえらなくちゃ
広い広いサバンナの中、ぽつりと生えた一本木の下────其処が二匹の兄弟の棲家。
一本木は広いサバンナを行き交う獣達にとって、道標の一つだった。
その下をこっそりと棲家に誂えたのは、数年前に死んだ母だ。
母は重い体で賢明に土を掘り、子供達が安全に棲み暮らせる場所を作り、其処で二匹の兄弟を生んだ。
兄弟が乳飲み子を卒業すると、身を守る術と、生きる術を教え、兄弟もそれを日々それを学び、すくすくと成長して行った。
しかし、普通の獣とは違う血を持つ子供達は、大人になるまで、普通の獣よりもずっと長い時間が必要となる。
母はそれを見届ける事のないまま、あるとても寒い日、子供達に熱を分け与えながら、永い永い眠りについた。
その後、兄は母の代わりに狩りに出るようになり、まだまだ狩りが覚束ない弟を養うようになった。
小さな体は中々大きな獲物を狩る事が出来ず、鼠や小鳥を捕まえ、肉食動物達が食い残した肉を剥ぎ取る事で命を繋ぐ。
次第に弟も子鼠位なら捕れる様になったが、兄弟共に成長盛りで、中々腹は満足しない。
生きる為には食べなければならないのに、食べる為の体力が尽きて来ると、走る距離も縮み、爪も牙も力を失くしてしまう。
一日二日と何も食べない日が当たり前となり、空腹を誤魔化すように草を食べる。
けれど、肉食動物の血を持つ躯を維持するには、草では栄養が足りず、弟は段々と起きる事も儘ならなくなって行った。
兄は必死の思いで鼠や兎を捕まえて、僅かな肉を弟に与え、弟は肉の半分を食べて、後は兄に譲る。
兄が弟を見捨てれば、弟が死ぬ代わりに、兄は腹を満たす事が出来ただろう────逆も然り。
それは彼等も判っていたし、僅かな肉を胃に入れる度、もっと欲しい、もっと食べたい、と言う気持ちも強くなった。
けれど、お互いがそんな気持ちを抱いている事は判っていて、それでも兄に、弟に生きていて欲しいと思う気持ちも判ったから、お互いが足枷である事を理解していながら、兄弟は少ない食糧を分け合って、ギリギリの所で日々の命を繋いでいた。
幸いなのは、兄弟はまだまだ大人の体躯にまで育っておらず、人間の子供で言えば五つ六つの幼子でしかないと言う事だろうか。
成長盛りにも関わらず、栄養が足りない事は、彼等の発育に大きな影響を与えている。
本来ならは忌避すべき事であったが、お陰で体躯も然程大きくは育っておらず、母が作った棲家を今も使う事が出来る。
動物達が目印にする一本木の周りには、定期的にサバンナを移動する動物達が近付く為、お陰で子供達は、棲家から遠く離れる事なく、狩りをする事が出来ていた。
だが、いつまでも環境が変わらない訳ではない。
雨季の雨が足りず、酷い干ばつがサバンナを訪れた年、兄弟が済む一本木の周囲には、碌に草も生えなかった。
傍を流れていた清流の川も干上がってしまい、魚を捕まえる事は勿論、水浴びも出来ない。
兄弟が日々の食糧にしていた鼠や兎は疎か、虫も姿を見なくなり、草も食べる程に成長しない。
巣穴の外は灼熱の炎天で、兄弟は引き籠り過ごす日々が続いたが、食べない日々では命もいつかは潰えてしまう。
鳴る腹を誤魔化すように丸くなる弟を巣に残し、兄は生まれて巣穴から遠く離れた場所に向かった。
枯れた草原の向こうには、母に狩りを教わった時に行っていた森がある。
森がまだ枯れていないのなら、サバンナにいた動物達は、きっと其処に棲家を移している筈だと信じて。
かくしてその希望は実を結び、兄は地上に下りていた数匹のリスを首尾良く捕まえ、一匹だけ自分で平らげると、補給したエネルギーを使って、弟の下へ走ろうとした。
─────しかし。
「がっ……!がうっ…!ぎゃうぅ…!!」
鬱蒼とした茂みの中で、一匹の獣がもがいている。
丸みのある耳と、細い尻尾の先端にはふさりと丸く束になった毛。
体高は、人間で言えば二歳から三歳の子供程度と言った所か。
多くの動物と違い、二足歩行と背骨を縦に伸ばせるお陰で、立ち姿のシルエットこそ人間や猿に近いが、ヒトとも猿とも違う顔立ちをしている。
尖った眦と、大きな瞳に映る細く縦に伸びた瞳孔、尖った牙を携えた口と、それらの特徴は、主に猫科の獣と類似していた。
体重を支える肢の特徴も猫科のそれとよく似ており、ヒトならば持ち得ないものである肉球も備えられていた。
その肉球のある前足───ヒトで言うならば手で、獣は己の足を噛んでいるものを引っ掻いている。
獣の後ろ肢には、鉄の牙が噛み付いており、まだ柔らかい獣の肢の肉を引き裂いていた。
「うがっ、がっ。ぎゃうっ!がうっ!」
獣は必死の形相で、躯を丸め、肢に取り付いた鉄に噛み付いた。
初めての鉄は、酷く冷たく味気なく、固くて獣の牙を弾いてしまう。
鉄の牙には鎖がついていて、先端は土の中に埋められていた。
鎖は非常に頑丈で食い千切る事が出来ず、、獣はこの鉄牙を外さなければ、この場を離れる事が出来ない。
棲家で腹を空かせて待っている弟の為にも、早く帰らなければならないと言うのに。
「ぎゃううっ…!がうっ、がうっ…!がぅうううう……!」
鉄牙に噛みついた獣の眦から、じわじわと雫が溢れて来る。
森にはこう言う危ないものがあるから、歩く時には用心しなさいと母に教わっていたのに、忘れていた。
束の間に満たせた腹と、捕まえた餌を早く弟に届けてやりたくて、すっかり注意を怠ったのだ。
肢を劈く痛みも、此処から身動きできない歯痒さも、何もかもが悔しくて堪らなかった。
巣穴を出てから、既に二度目の夜が来ている。
腹を空かせた弟は大丈夫だろうか、寂しさに耐えかねて巣穴を出たりしていないだろうか。
自分よりもずっと衰弱している上、体の小さな弟は、巣を出たら大きな鳥に狙われ易い。
だから、決して外には出ないように言い含めているけれど、こんなにも長く一人にさせた事はなかったから、心配で堪らなかった。
だから、早く。
早く早く、巣に帰らないといけないのに、鉄の牙が邪魔をする。
「ふぎぃ……っ、ぎゃううぅう……っ!」
背中を丸めて、肢に食い込む鉄牙に牙を立てる。
無機物の鉄は、どんなに噛んでも引っ掻いても、噛み付く力を弱める事はない。
しかし、諦める訳には行かないから、必死の形相で抵抗を続けていた。
そうして、どれ程の時間が流れただろうか。
鬱蒼とした森にも、微かに光が差し込む程に明るくなった頃、獣は疲れ果てていた。
鉄牙を噛む顎にも力が失われ、滲む血も乾いて変色を始め、痛みすら麻痺して判らなくなり────疲れ切って、意識半分になっていた時だった。
ガサガサと茂みを掻き分ける音が近付いて来る。
それは獣の耳に聞こえてはいたが、最早疲れ切った幼い獣に逃げようとする気力はない。
ただ見付からないように、出来るだけ静かに、自分の存在が気付かれないようにするしかなかった。
だが、願いもの虚しく、獣はついに見付かった。
猿とよく似た姿形で、聞いた事のない言葉を操る生物に。
「ありゃ。お前、こんな所でどうしたんだ?」
毛のない体を守るように、皮膚とは違う色の皮で体を包んだその生物は、人間と言う生物だと、母から教わった事を、幼い獣は辛うじて思い出した。
この人間と言う生物は、大抵が動物達にとって恐ろしい生物だと言うが、母はそれとは違う人間とであった事があるらしい────が、幼い獣にはそれは関係のない事だ。
見た事のない生物に初めてであった事で、獣はパニックで固まり、警戒してじっと躯を竦ませているしか出来なかった。
人間は丸い目を獣に向け、ゆっくりとした足取りで近付いて来る。
肢は前後ともに長く、その肢が伸ばされれば射程に入ると言う直前で、獣は我に返って逃げ出した。
しかし、一足に距離を取ろうとした筈が、後肢に噛んだものに阻まれる。
「ぎゃいっ!」
「あっ」
食い込んだ鉄牙が、獣の足の肉を引き裂いた。
悲鳴を上げて倒れ込んだ獣に、人間が声を上げて近付こうとする。
しかし、その足は別の声に留められた。
「よせ、ラグナ。警戒しているだろう」
「ウォード……そうは言うけど、あれ、可哀想だぜ」
「判っている。だが、悪戯に近付いても、怯えさせるだけだ」
また人間が現れたのを見て、獣は全身の毛を逆立てた。
先に来た人間よりも、二倍三倍にも大きな人間が現れたのだから、無理もない。
その傍らには、逆に一回り程細い体躯の人間も立っていた。
「獣人種か。やはり、この辺りには多いようだ。土地特有のものかな」
「そう言うのは後で良いから、あのトラバサミ、外してやろうぜ」
「ふむ……そうだね。随分古い代物のようだし、躾の悪いハンターの忘れ物のようだ。外しても問題はなさそうだな」
「よーしよし。んじゃ、直ぐ外してやっからな~。恐くないからな」
人間たちが近付いて来るのを見て、獣はガリガリと地面を引っ掻いた。
逃げようとしてる幼い獣の姿に、最初に現れた人間が「ごめんなあ」と言って前足を伸ばす。
咄嗟にその前足に噛み付くが、前足はごわごわとした固い皮に覆われていて、肉まで到達しない。
一際体の大きな人間が、幼い獣の体を地面に座らせて押さえ付ける。
鉄牙に噛まれた足を暴れさせていると、体の細い人間が、獣の足を付け根から押さえた。
身動きが出来ない状態になって、獣は錯乱したように大きな声を上げる。
「がうっがうううう!ぎゃううううっ!」
「怖いよな、痛いよな。ごめんなあ。直ぐ終わるからな」
遮二無二暴れる獣を、人間は声をかけながら、獣を噛む鉄牙を掴んだ。
鉄牙を噛みあわせるバネが、キリキリと固い音を鳴らしながら伸びて行き、肉を噛んでいた棘から力が緩む。
「よ…っと────よしっ」
ばきん、と音がして、鉄牙が二つに割れた。
上の歯と下の歯で分解された牙が、かしゃんと音を立てて床に転がる。
穴の開いた獣の足から、夥しい赤が溢れ出したが、獣は構わずに捕まえる人間たちの前足を振り払って飛び出した。
「あっ、こら、待てよ!まだ手当が、」
「がうっ……!」
何処かへと走ろうとした獣の足が縺れ、まだ小さな体が地面に転ぶ。
栓を失った事、無理に動いた事が切っ掛けとなり、獣の足からどくどくと夥しい血が流れ出していた。
人間は獣を捕まえると、抱き上げて傷の具合を確かめる。
傷の傍を触れられるだけで、獣はぎゃうぎゃうと叫んで暴れながら、人間の前足に牙を立てた。
鉄牙を何度も何度も齧っていた所為で、獣の牙は、傷付いて欠けている。
それでも必死に逃げようとする獣に、人間は「ごめんな、ごめんな」と詫びながら、獣の足にぬるぬるとした粘液を塗り始めた。
「ぎゃうううう!がうっがうう!」
「沁みるんだな。ごめんな、でも今だけだから」
「ラグナ、少し場所を移動しよう。猛禽類が集まって来ている。その子を狙っているんだろう」
「ああ、判った。……よし、取り敢えず止血は済んだな。後は安全なトコ行ってから────あてっ」
捕まえる力が緩んだ隙を逃さず、獣は人間の胸を蹴って、外へと飛び出した。
肢の感覚は相変わらず鈍く、じんじんと熱く、塗られた粘液の所為で奇妙な匂いもあったが、構っている暇はない。
地面に落としていたリスを咥え、獣は四足になって走り出した。
だが、幾らも進まない内に、また足が縺れて転んでしまう。
その隙を狙って、木の上で彼等を狙い続けていた鳥達が、ギャアギャアと襲い掛かって来た。
「………!」
前足で頭を抱えて蹲ると、背中に固い嘴が突き刺さる。
ぶちっ、ぶちっ、と背中に穴が開くのが判った。
「こら、お前ら!やめろ!あっち行けって!」
人間が大きなものをぶんぶんと振り回して、鳥達を追い払う。
大きな人間が獣を抱え、鳥から隠すように、柔らかな毛並みの皮で獣を包む。
その所為で目の前が見えなくなって、獣は慌てて暴れ出した。
「む…、随分と元気だな。これだけ傷を負っていると言うのに」
「何処かへ行こうとしているのかも知れないな。例えば、巣だとか…」
「家があるなら帰してやろうぜ。近くまで連れて行ってやる位なら良いだろ?こんなに小さいんだしさ」
「……深く関わるのは感心しないが、獣人種は保護すべきとされているしな。群れを見付け次第、放してやるなら大丈夫か」
人間が何事かを交わしている間も、獣は包まれたまま、じたばたと暴れていた。
動く程に肢の傷が痛み、熱を持ち、口の中からも錆がじわじわと広がっていたが、構っている暇はない。
鬱蒼とした森の中で、二回目の夜を過ごしているのだ。
弟がきっと腹を空かせて寂しがっている筈だから、早く帰って安心させてやらなければ。
そう思っていると、ぱさり、と目の前を覆っていたものが取れた。
はっとして顔を上げると、森の緑に似た翠の瞳が、此方を見ている。
「家の近くまで連れて行ってやるよ。下ろしてやるから、ゆっくり歩くんだぞ。な?」
毛のない顔を柔らかく綻ばせて、人間は言った。
俺達は恐くないからな、と言った人間の言葉を、獣は理解できない。
それでも、地面へと下ろされた獣は、もう逃げるように走り出そうとはしなかった。
一歩一歩、倒れないように歩く獣の後ろを、人間たちはゆっくりと追った。
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二本脚で歩けるけど、見た目は獣7:ヒト3くらいの割合で、獣なレオンとスコールの萌えを頂きましたので、勝手に精製。
思考力は2歳か3歳児くらい。身長もそれ位で、二頭身~三頭身のイメージ。