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Category: FF
ウォーリアが自宅に帰って来た時、彼はそれはそれは酷い有様だった。
頭の天辺から足の爪先まで、余す所なくぐっしょりと濡れた彼は、その手に折れた傘を持っていた。
今日の夜から雨になると言う予報は確認済みで、故にこそ彼は傘も忘れず準備していたのだが、まさか此処までの暴風雨になるとは、流石に予想していなかったし、少なくとも出勤時間である朝の段階では天気予報もそこまで言及してはいなかった。
雨は予報通りに降り出し、其処までは想定通りであったのだが、計算外だったのは風の強さだ。
小さな子供が傘を差していたら、風に煽られふわりと浮き上がってしまいそうな、それ程の強風である。
流石に大人の男性であるウォーリアが宙に舞うことはなかったが、代わりに傘が犠牲になった。
すっかり逆向きに開いた上で、骨組みから折れた傘は、最早修復不可能だ。
可能だったとしても、買い直した方が早い、と言える状態。
それが自宅の最寄り駅に着いてからの事だったものだから、家路の途中に代替品を買うのも躊躇われ、買った所で間もなくそれもお陀仏になりそうだったので、仕方なくウォーリアはそのまま歩いて帰ったのだ。
彼にとって幸いだったと言えるのは、明日が休日とあって、恋人のスコールが家に来ていた事である。
風雨の様子を心配していた所へ、丁度帰って来たウォーリアを見て、スコールはすぐに彼を風呂へと押し込んだ。
準備の良い恋人は、濡れ鼠までは流石に想定してはいなかったが、これだけの荒れた天気なら濡れて帰って来る羽目になるであろうウォーリアの為、しっかり風呂を沸かしていた。
お陰でウォーリアはすぐに温まる事が出来、その間にスコールは夕飯も作り終え、災難を十分に忘れる程の穏やかな夜を過ごせたのだった。
しかし、夜も過ぎた頃、ウォーリアは異変を感じた。
愛しい人が泊まりに来ているのなら、熱い夜を過ごしても良かったのだが、今日は流石に疲れていた。
スコールもそれは判っており、今日は添い寝をするだけで程無く眠った筈が、夜半になってふとウォーリアの目が覚めた。
普段は、翌朝の決まった時間になるまでは滅多に目を覚まさないのに、明け方もまだと言う時に、突然ふっと意識が覚醒したのである。
隣で眠る少年に何かあったのかと思ったが、彼はすぅすぅと規則正しい寝息を立てていた。
ウォーリアは自分の行動に首を傾げたものの、稀にはあることだと深くは気にせず、もう一度眠る事にした。
────だが、それから彼は、全く眠れなかったのである。
翌朝になって、朝食を作ろうと重い瞼を開けたスコールに「おはよう」と声をかけようとして、ウォーリアはまた一つ異変に気付いた。
喉の奥が痛みを発し、声を出そうとすると何かが絡んだように上手く発声できない。
げほ、と音が出たのを聞いたスコールが、ウォーリアが自分よりも先に起きていた事と、滅多に聞く事のない咳をしていることに気付いた事で、ようやっと、ウォーリアが風邪を引いた事が発覚したのである。
それからはスコールが昨夜にも増しててきぱきと行動した。
自分が風邪を発症していると、何故かその認識が鈍いウォーリアに、体温計を使ってその数字を見せる。
とにかくベッドから動かないようにと言い聞かせ、一先ず冷蔵庫にあったリンゴを摩り下ろし、それを朝食として食べさせた。
常備薬として棚にしまわれている市販品の風邪薬を飲ませた後は、寝て休むようにと促した。
それから程無く、昨晩の睡眠不足と、薬の副作用もあってか、ウォーリアは間もなく眠りにようやっと就くこととなる。
ウォーリアが眠ったのを確認してから、スコールはようやく寝間着から着替えた。
冷蔵庫の中身を確認したスコールは、病人食を作るには聊か足りない材料を確認すると、すぐに買い物に出た。
恋人の体調不良の原因を作った昨晩の雨は、あれからすっかり通り過ぎ、憎らしい位の青空になっている。
歩いていける距離にある、複合施設の生鮮食料品売り場で、必要なものをまとめて買い込み、終わると走って帰る。
戻った時には、ウォーリアはまだ深い眠りの中にいて、スコールはほっとした気持ちでキッチンへと立った。
ウォーリアが食欲があるかは起きて改めて聞いてみなければ判らない事ではあったが、一先ず胃に負担がかからないものをと意識して、昼食の準備を始めた。
炊飯器にセットした粥が、炊き上がりの音を立てて間もなく。
時間にして、ウォーリアが眠ってから三時間ほどは経っており、そろそろ目を覚ましただろうかと寝室を覗いてみると、
「起きてたか」
「……ああ。つい、先程」
上半身を起こし、ぼんやりとしていたウォーリア。
声をかけると、彼はゆっくりとスコールの方を見て、微かに目を伏せて応えた。
その白磁のような色をしている筈の頬が、いやに血色の良い肌色になっているのが、反って彼の体を熱が病んでいるのだと言うことがありありと感じさせられる。
ウォーリアはスコールとは別の意味で表情筋の固い男であるが、今日はその顔が緩んでいる。
意識がふわふわと浮かんでいるような、アイスブルーの瞳が蕩けているようにも見えて、スコールは眉根を寄せた。
(なんでそんなになるまで、自分が風邪ひいてるって事に気付かなかったんだ?)
今朝、体温計の数字をつきつけるまで、ウォーリアは自分の状態に気付いていなかった。
幾ら滅多に体調を崩さないからと言って、この鈍さはない、とスコールは思う。
(……いや。気付かない位、調子が悪かったって事なのか。だとしたら、気付くべきだったのは……)
体調不良で判断能力も鈍り、自己認識も甘い状態の病人に、色々と気付けと言うのは聊か無理もある。
それよりは、傍にいる自分が気付くべきだったのだと、スコールは漏れそうになる溜息を飲み込んだ。
ベッドの傍に歩み寄ったスコールは、まだ少し眠そうに目を細めているウォーリアを見下ろして言った。
「一応、粥が出来てる。食べられそうなら、持って来る」
「…頂こう。君が作ってくれたものだ。食べなくては勿体ない」
「……無理に食おうとしなくて良い」
「いや、大丈夫だ。すまないが持って来て貰えるだろうか」
「……ん」
ベッドから出るな、と言う言いつけは、ちゃんとウォーリアの記憶に残っているらしい。
理由は何にせよ、食事の意欲もあるのなら、それは良い事だ。
スコールは踵を返し、キッチンに戻って、すぐに昼食の準備を整えた。
炊飯器から小さな小鍋に粥を移しておき、そこから茶碗に注いだ粥とレンゲ、梅干しを一つ添えて、寝室へと戻る。
「食べられる所までで良い」
「ああ、ありがとう」
「薬と水を持って来る」
ウォーリアがトレイを受け取り、膝の上に丁寧に置いたのを確認してから、スコールはまたキッチンへ。
ダイニングテーブルの上に出して置いたままにしていた薬と、買って来たばかりの常温のミネラルウォーターのペットボトルと、グラスを用意して寝室に戻った。
炊飯器から出したばかりの粥は、ほこほこと湯気を立てている。
それを少しずつ、冷ましながら口へと運ぶウォーリアに、食べる事は出来るようだ、とスコールは安堵した。
と、そんなスコールを見たウォーリアが、
「君の食事は、良いのか?」
「……持って来る」
言われて、そう言えば自分もまだ食べていなかった、とスコールは思い出した。
何なら、昼食と言わず、朝食も食べ損ねている。
ウォーリアはその事には気付いていないようだったが、此処で彼が言わなかったら、スコールは晩まで何も食べずに過ごしていたかも知れない。
それ程に、スコールはウォーリアの看護の準備で頭が一杯だったのだ。
食パンを手っ取り早くトーストし、バターを塗った後は、インスタントのスープを作った。
もう一つトレイを出して、それらに全て乗せて寝室に戻り、ベッドの傍に椅子を運んで座る。
朝も抜いているのに、少な過ぎはしないか───とは言われなかったので、スコールはいつも通りの顔で朝食兼昼食を済ませた。
スコールが用意した粥を、梅干しの塩気を貰いつつ、ウォーリアはゆっくりと平らげた。
薬も飲み終え、ベッドにまた横になったウォーリアの体温を測ろうと、ナイトテーブルに置いていた体温計を手に取ったスコールだったが、
「……ん」
「どうかしたのか」
「……点かない。電池が切れたか」
今朝は使えた筈のデジタル表示の体温計だが、ボタンを何度押しても液晶画面が反応を示さない。
そう言えば今朝見た時にも、液晶画面の表示が薄かったような、と今になって考える。
(電池なんてないよな。多分、普通の乾電池じゃないだろうし)
看病の為の諸々を買いに行った時に、買っておけば良かったか。
しかし、今朝の段階で電池切れが発覚していたならともかく、気付いたのが今ではどうしようもない。
スコールはしばし悩んだが、仕方ない、とベッドに片手を突いた。
「じっとしてろよ、ウォル」
それだけ言って、スコールはウォーリアの顔に自身の頭を近付ける。
銀糸の前髪を掻き上げて、広い額にこつん、と特徴的な傷のある額を押し付けて、そこからじわじわと伝わって来る体温の高さを感じていた
そんなスコールの顔を、ウォーリアは嘗てないほどの距離で見ている。
スコールと恋人と言う間柄になってから、一緒のベッドで眠る事も、それ以上の事もしているが、これほど近い距離で蒼の瞳を見る事はなかった。
思春期真っ盛りの少年は、元々が初心でもあって、触れ合うことは勿論、見つめ合うことも苦手としている。
キスをする時には必ず目を瞑ってしまうから、ウォーリアがどんなに見ていたいと思っても、近付く程にその蒼い宝石は瞼に隠れてしまうものだった。
それが、今すぐに触れ合いそうな程に近い距離で、じっとウォーリアを見詰めている。
深い深い海の底のような瞳の中で、意思の強い光が、溶け込んだ星屑のようにひらひらと揺れている。
いつも見付ける度に、吸い込まれるようにウォーリアを虜にする色が、光が、今初めて、じっとウォーリアを捕えて離さない。
────が、すげない光はまたすぅと離れて行ってしまう。
「やっぱりまだ熱い。今日は一日、大人しくしてるんだな」
いつもの距離に戻ってしまって、ああ、とウォーリアの心に嘆きに似た声が漏れた。
そんな事には露とも気付かず、スコールは空になった食器を一つのトレイにまとめて、片付けるべく席を立つ。
すぐ戻る、と言って部屋を出たスコールは、その言葉通り、数分となく戻ってきた。
洗い物をしたとは思えないので、恐らく、食器を水に浸けてきただけなのだろう。
またベッド横に座ったスコールに、どうやら彼がずっと付きっ切りで看病してくれるつもりであると、ウォーリアも理解する。
それはウォーリアにとって嬉しい事ではあったが、申し訳なくもあった。
「……すまない、スコール」
「……何がだ?」
ベッドに横になったまま言ったウォーリアに、スコールは眉根を寄せて返した。
謝られる事などあるか、と問う恋人に、ウォーリアは天井を見上げていた目を伏せる。
「今日は休日だろう。それなのに、君の手を煩わせてしまっている」
「……大した手間じゃない」
「だと良いのだが。それに、本来なら君には帰って貰わなくてはいけない筈だ。伝染してしまうかも知れないのだから。だが、やはり君がこうして傍にいてくれるのは心地が良くて……甘えてしまっている。すまないな、スコール」
「……別に、……そんなの」
重ねて詫びるウォーリアに、スコールの声が段々と小さくなって、俯いた。
しかし、ベッドに横になっているウォーリアが目を開けると、赤らんだ顔で視線を逸らしている少年の顔が見える。
なんとも面映ゆい顔を浮かべている少年に、ウォーリアの唇が僅かに緩む。
ウォーリアは、ベッドに沈めていた腕を持ち上げて、スコールの下へと伸ばした。
蒼の瞳が視界の端にそれを捉えると、唇が逡巡するように何度か引き結ばれる。
スコールは目一杯に眉間に皺を寄せた後、膝に乗せていた手をそろりと上げて、節張った手を掬うように重ねた。
(……あつい)
何度も熱を交わしたけれど、そう言う心地の良い熱とは違うものが伝わって、スコールは思わずその手を握り締める。
彼を蝕んでいるこの熱が消えてくれるのなら、自分に伝染る位はなんでもないとすら思う。
だが、それを言ってしまったら、ウォーリアはそれは絶対に出来ないと首を横に振るだろう。
だから、いつもの交わる熱が感じられるように、早く元気になって欲しい。
そんな願いにも似た気持ちに促されて、スコールは恋人の火照った頬にキスをした。
1月8日と言うことで、ウォルスコ。
偶にはウォーリアに体調不良になって貰った。
そんでちょっと弱って貰ったら、スコールが恥ずかしいけど突っ撥ねられなくてうぐうぐしながら甘やかす図になりました。ちょっと新鮮。
一昔前、正月に開いている店なんて、殆どないのが普通だった。
それが様々な経済の流れや、流通網の発達、人々の生活形態の変化などがあって、24時間365日利用できる店が増えて行った。
そして今現在、便利な代わりに忙しくなった日々から脱却し、ゆとりを楽しむ一時を取り戻す為、改めて正月休みなんてものを取るべきであると、大手企業は考えるようになったとか。
お陰でラグナは、年末年始を家族と一緒に過ごすことが出来るようになった。
一応の重役なんて言うポストに就かせて貰っているお陰で、元々休みは取得し易い筈ではあったが、仕事の都合を色々と考えると、やはりそう易々とは休めない。
しかし、ラグナは家族を第一に考えていて、年間行事のあるシーズンとなれば、やはり家族と一緒に過ごしたいとも思う。
今のポストを貰うまでは、どうしても仕事を優先しなくてはならず、家庭のことは妻に頼り切りとなり、幼かった子供達にも随分と寂しい想いをさせていた。
その反動もあって、ラグナは正月は勿論のこと、夏休みには皆と一緒に海へ行ったり、ちょっとした行楽に誘ったりと、家族サービスと呼ばれるものに余念がなかった。
いつの間にかその空気は部署全体にも広がっており、正月に某か予定のある者はそこで優先して休みを貰い、代わりに正月出勤した者は、後でその分の休みを取りと、そこそこ上手く回るようになっている。
ラグナ自身もこれのお陰で自分の休みを調整する事が出来ているので、有り難い事だ。
クリスマスの華やかな一時を過ぎ、一転、年末の準備に速足で切り替わる、忙しない年末を終えて、ようやくのんびりと過ごす時間。
ラグナはリビングに出した炬燵に入って、蜜柑の皮を剥きながら、テレビ番組を眺めている。
そんな彼の後ろにあるキッチンでは、息子二人がいそいそとこの後の準備を始めていた。
「大きさ、これ位で」
「見た目としてはもう少し大きい方が良いんじゃないか?」
「晩飯前だし」
「まあ、それもそうだな」
ラグナは剥き終わった蜜柑を一房食べて、ちらと肩越しにキッチンを見る。
アイランドキッチンの天板には、まな板と包丁が並べられ、その横に箱があった。
箱から出したものをスコールがそうっとまな板に乗せると、包丁を取って、これくらい、この辺、と宛がって切り分けるサイズを確認している。
「余ったのはどうする」
「ラップして冷蔵庫に入れておこう。明日食べれば問題ないさ」
「上……真ん中の苺、これどうやって切れば」
「退かせるか?」
「それだと穴になるだろ。でも力任せは押し潰すし……」
「そうなると見た目も良くないしな。あまり揺らさないように気を付けながら引き切るしかないか」
ああしてこうして、ああでもない、こうすれば、と話し合う兄弟の声が、ラグナには微笑ましい。
弟がまだ幼い頃にも、レオンはああやって、彼と一緒にキッチンに立っていた。
それはレオン自身が幼い頃、母と共に過ごした年始の楽しみと言うものを、早くに逝ってしまった彼女に代わって弟に伝えたいと思ったからだ。
お陰でラグナは、この歳になっても、今日と言う日を喜びと共に過ごすことが出来る。
年が明けて間もなくして、今年もラグナの誕生日はやって来た。
一昔前は、こんな時に開いているケーキ屋なんてものは滅多になかったが、代わりに妻レインが手作りケーキを作ってくれた。
初めは二人きりの正月と誕生日だったから、彼女が営んでいたカフェバーでも出していたカップケーキが二つ。
レオンが生まれてからは、先ずは幼児でも食べられるケーキを母子が一緒に作って用意してくれた。
次第にレオンが母の諸々を手伝えるようになると、手作りケーキも段々と本格化して、レオンがデコレーションを担当したりと、凝って行く。
そしてスコールが生まれ、彼の物心がつく前に彼女は急逝してしまうが、レオンは毎年恒例になっていた父の誕生日を忘れなかった。
幼い弟の面倒を見ながら、いつか母にして貰ったように、スコールと一緒にケーキを用意し、ラグナに兄弟揃って「誕生日おめでとう」と言ってくれた。
しっかり者になってくれた兄と、まだ意味が判らなくても兄を真似て健やかに育つ弟と、そんな姿を妻に見せてやれない遣り切れなさで、ラグナは泣きながら笑っていた位に堪らない思い出になった。
今ではスコールは17歳の高校生に、レオンも25歳で立派な大人になっている。
しかし、今日と言う日の習慣は今も変わらず続いていて、二人は父の誕生日祝いをしっかり用意してくれていた。
そろそろ受験が見えて来るスコールと、社会人として忙しくしているレオンであるから、流石に手作りケーキは用意できず、代わりに駅前にある有名店が今日から開店しているとチェックをしていたようで、其処で小さなホールケーキを買って来た。
贅沢過ぎるほど贅沢だ、とラグナは想いながら、彼等の準備が終わるのを待っている。
「湯が沸いたな。コーヒーにミルクはいるか?」
「……いる」
「砂糖は」
「それは良い」
「父さんはどうする?」
カップの準備をしながら、レオンが父に訊ねた。
ラグナは、そうだなあ、と考える素振りを見せてから、
「俺もミルクだけ入れて貰おっかな」
「判った、ミルクだな」
「レオン、後で皿を出してくれ」
「ああ」
父と弟にそれぞれ返事をして、レオンはてきぱきとやる事を熟していく。
社会人になるまで、母に代わって家事の殆どを担当していたレオンは、本当に手際が良い。
スコールも、幼い頃からその手伝いをし、兄が成人した頃にはすっかり役割を引き継いだこともあって、キッチン回りの仕事は慣れたものであった。
コーヒーサーバーをセットし終えたレオンが、食器棚からデザート皿を出す。
三枚のそれをキッチンに置いた所で、スコールが「あ」と言った。
「これ……」
スコールが眉根を寄せながら兄に見せたのは、一枚のチョコレートプレート。
長方形の薄いミルク味のそれには、本来ならメッセージなり名前なりと書いてあるのだろうが、今はそれらしきものは綴られていない。
と言うことはまさか───と言う顔をするスコールに、レオンは頷いた。
「ああ。これを注文する時に、誕生日ケーキなんだと言ったら、店員が添えてくれたんだ」
「……で、なんで何も書いてないんだ」
「ご家族でどうぞ、ってな。ほら、チョコペンもある」
そう言ってレオンがケーキの箱の奥から取り出したのは、ホワイトチョコレートのペン。
残っていたポットの湯でレオンがそれを温めている間、スコールは露骨に貌を顰めていた。
「書いておいて貰えば良かったのに」
「まあ、それもありではあったがな。でも折角なんだから。半分ずつ書こうか」
「レオンが書けば良い」
「そう言うな」
俺はやらない、と突っぱねるスコールであったが、彼のそんな反応は兄には予想済みだ。
構わずレオンは、程好く溶けたチョコペンで、メッセージプレートに文字を綴っていく。
スコールが幼い頃は、よく手作りケーキを用意していた事もあって、綴る字体もやはり慣れたものであった。
綺麗な筆記体で『父さんへ』『Happy』とまで書いてから、レオンはチョコペンをスコールに差し出す。
其処まで書いたなら、全部書いてくれたら良いのに。
スコールの表情はありありとそれを語っていたが、差し出されたものは一向に引っ込まない。
結局、押しに敗けるような気持ちで、スコールはチョコペンを受け取った。
切り分けたケーキを皿に移し、その一つにメッセージプレートも乗せて、レオンはそれを炬燵へと運ぶ。
スコールは残ったケーキをまた別の皿に移動させて、ラップをして冷蔵庫へと入れた。
コーヒーも炬燵へと移した所で、スコールも兄を追ってキッチンを後にし、父子三人がリビングの炬燵の中へと納まる。
「さてと。じゃあ、お祝いだな。誕生日おめでとう、父さん」
「……おめでとう」
一心地としてから、レオンが父に今日の祝いを述べれば、スコールもそれに倣うように言った。
もうそれだけでラグナは感無量と言うものだ。
「ああ、ありがとな。毎年ケーキも用意してくれてさぁ。俺ってば幸せものだなぁ」
「……大袈裟だ」
「ふふ。ケーキはまだ残っているから、明日も食べよう。今日は夕飯前だから、このサイズで勘弁な」
「うんうん、判ってる」
皿に乗せられたケーキは、元々のサイズが4号と言う小さなサイズと言うこともあって、どう切り分けても店で売っているような程好いカットサイズは難しい。
かと言って切り易い四等分では聊か大きめになってしまうし、今から三時間もすれば夕飯だ。
幾らケーキとは言え、このタイミングで沢山食べるのはどうかと、スコールが気を遣ってケーキを切り分けてくれた事はラグナもよく判っている。
ケーキを一口食べてみると、ふんわりとした触感のスポンジに、甘い生クリームが絡んで溶ける。
スポンジの間に挟んだスライスされたフルーツの酸味が味わい深く、もう一口、もう一口と進んでフォークが伸びた。
流石有名店のケーキだな、と呟くレオンに、スコールも頷いていた。
ラグナも息子たち同様に舌鼓を打っていたが、ふと、
(────お)
後の楽しみにと残しているチョコレートプレートに目が行った。
こういったデコレーションを作ることに慣れている、綺麗な筆跡の綴りと、其処に並んで几帳面な字体。
その光景が、嘗て幼い次男と一緒にケーキを作っていた長男の、思い出の情景と重なった。
あの頃にも二人はこうしてメッセージプレートを用意して、チョコペンで一所懸命にお祝いのメッセージを書いてくれたものだった。
当時はチョコペンの使い方にも四苦八苦していて、綴りが途切れたり、線がくにゃくにゃとヘビのように踊っていたりと、それは微笑ましいものだった。
それが今では、こんなに綺麗な文字で書けるようになっている事に、子供達の成長を感じる。
(食べちまうの、勿体ねえなあ)
そう思うのは、いつもの事。
息子たちが幼い頃から、学校の課題もあって書いてくれた手紙などは、今でもラグナのデスクの引き出しに大事に仕舞われている。
彼等から貰ったものは、いつまでもいつまでも大事に取っておきたいラグナにとって、どうしても残してはおけないチョコレートのメッセージプレートは、勿体無くて仕方がないものだった。
けれども、これを食べないと言うのも、それはそれで非常に勿体無い話だ。
昔、スコールがまだ甘いものが大好きな位に幼かった頃。
父の為にと用意したケーキは、それに添えられたチョコレートのメッセージも含めて、父への贈りものだった。
けれども、父が独り占めにする形になるチョコレートが、スコールは羨ましくて仕方がなかったようで、よくじいっと見詰めていたものだ。
そんなスコールが可愛くて、ラグナはいつも、メッセージプレートを割っていた。
レオンも仲間外れにしちゃいけない、と彼の分も用意すると、レオンは判り易く遠慮をするのだが、三人で同じものをシェアするとスコールが大層喜ぶものだから、結局彼も受け取っていた。
あれから時が流れて、スコールも味覚の変化もあり、甘いものはそれ程得意ではなくなった。
けれど、こうして祝う時には必ず同じ場所にいてくれて、口では色々と呟きつつも、準備はせっせとこなしてくれる。
レオンは、思春期真っ盛りの弟が少し素直になれるように口添えしながら、父が毎年願っているように、家族皆で今日と言う日を迎えられるようにと努めてくれるのだ。
────だからこれは願掛けだと、ラグナはメッセージプレートを持つ指先に少し力を入れて、ぱきりとそれを三つに割った。
幼い頃とは違い、異なる大きさに割ったそれをシェアすると、スコールは仕方ないと言う顔で、レオンは嬉しそうにそれを受け取ってくれるのだった。
ラグナ誕生日おめでとう!と言うことで息子二人にお祝いして貰いました。
父の誕生日祝いを喜んで準備するレオンと、文句言ってるようでちゃんと準備するスコールです。
ラグナが嬉しそうだと二人とも嬉しいんだけど、レオンは素直にそれを認めれる、スコールはツンデレする。
スコールがツンツンするのは、喜ばれるのも全部恥ずかしくて照れ臭いからだけなので、兄の父もちゃんとそれを判っています。
バラムの年末年始の人々は、その殆どが一度は皆とへと集まる。
島と言う環境にあって、漁業が盛んなバラム島では、海を司るとされる竜の姿をした水神が祀られていた。
漁師が今年一年の感謝と、来年の抱負を祈り、また漁業以外の仕事をしている人々も、海難事故などあれば嫌が応にも響いて来るものであるから、此方も同様に感謝と抱負の願いを捧げていた。
水神が祀られているのはバラムの街の港の先端にあるのだが、この港自体は決して大きいものではない。
島にバラムガーデンと言う大きな教育機関が出来たことや、セキュリティ会社が大きなビルを建設して、其処に何百人と言う社員を持つようにもなったことも重なり、実に多くの島民多くが集まるので、平時よりも更に其処は大盛況となる。
参拝に訪れる人々をターゲットに、いつしか出店も並ぶようになり、それの数も増えて行き、また年末年始の大安売りや、福袋の呼び込みをする者も出てきた。
若者の中には参拝よりも出店を目的とする者も多く、年末年始のバラムの港は、年々混雑を増している。
レオンは、バラムに来るまで、年末年始と言えば家でのんびりと過ごすものだった。
故郷である山間の村は、そもそも時節に限らず静かで穏やかなものであったが、年の瀬が近付くと少し慌ただしくもなる。
母であるレインは小さなバーを営んでおり、村の人々が其処に集まるのが平時の光景だ。
店はほとんど不休で開いていたそうだが、レオンが生まれて以来、年末年始だけは店を閉めている。
息子と夫と、エルオーネが生まれてからは彼女も加え、家族四人で過ごす為だ。
とは言え、元々が何もない小さな村であるし、何処かに出掛けようにも、車がなくてはどうにもならない場所であるから、やっている事は普段と大して変わらない。
けれど、ノイズの混じり易いテレビを見ながら、いつもより遅い時間まで起きていて良い、と言うのが、幼いレオンとエルオーネにとってはイベントのようで楽しかった。
そしてバラムに移り住んでからは、その地の年の瀬と言うものに段々と染まっていく。
初めてレオンが水神の参拝をしたのは、スコールが一歳になった年明けのこと。
人で溢れ返ってしまう年末年始直ぐのタイミングは避けて、シド先生に連れられて、妹弟と一緒に港の先へと訪れた。
その時にはもう出店も殆ど畳まれており、いつも通りの港の景色が戻って来ていたが、レオンと同じように人出が減った所にと参拝に来た人は、まだちらほらと確認できていた。
レオンはシド先生に教わった通りに、エルオーネとスコールはそんなレオンを真似て参拝をした。
帰りには、此方も平常運営となった出店に立ち寄って、「きちんと神様にご挨拶できたご褒美ですよ」と、レオンとエルオーネにはココアを、スコールはミルクを買って貰った。
温暖な気候のバラムとは言え、冬真っ只中の港は冷えるもので、ベンチに座って飲んだ温かな飲み物は染み入るようであった。
それ以来、レオンは毎年、年末年始には水神の参拝に行くようにしている。
孤児院の子供達は、それぞれのタイミングに合わせて、クレイマー夫妻が水神の参拝へと連れて行っていた。
とは言え、一番年上のレオンであるから、そう遅くはない内に、彼も「子供達を連れて行く側」になっている。
担当は先ずスコールとエルオーネだが、孤児院の兄役であったレオンは幼い子供達に人気があったから、僕も私もレオンと一緒が良い、と言う子は少なくなかった。
中には「レオンが一緒じゃなきゃ行かない!」とまで言う子もいたので、レオンはスコールをエルオーネや夫妻に任せ、その子供と一緒に、繰り返し参拝に行くと言う年もあった。
バラムガーデンの立ち上げと、それに伴う孤児院の閉鎖を経て、レオンは夫妻の手を放した。
バラムの街に家族三人で過ごすようになってからも、年末年始はやはり一度は皆とへ参拝に行くようにしている。
物心がつく前からそれをしていたからか、スコールもすっかりそれを習慣ととして認識しているようで、「お参りに行くよ」と言うと直ぐに自分で準備する。
エルオーネは時々「寒いからやだ」と言うようになったが、参拝を済ませた後のホットココアに釣られてくれる。
彼女にとっては、寒い港での参拝よりも、其方の方が目当てなのだろう。
そして今年、兄弟の下には新しい家族が加わった。
トラビア大陸にある大都市ザナルカンドからやって来たティーダは、生まれた土地とは違う年末年始の過ごし方に、終始不思議そうにしていた。
街にネオンが光る訳でもなければ、賑やかな音楽が鳴り響くこともなく、テレビは正月に向けた特別番組が放送されるが、ブリッツボールのエキシビジョンマッチやパフォーマンスが生放送される事もない。
街は店頭にこそ正月に向けた飾り付けやセールのお知らせが出ているが、全体は普段の風景とそれ程変わりはなかった。
“眠らない街”と称されるザナルカンドとは全く異なる光景に、ティーダは毎日のように不思議そうに首を傾げている。
そんなティーダも伴って、レオンは参拝に行く事にした。
普段は人混みを避け、一番込み合う日から遅れて向かうことにしているが、偶には真っ最中に行ってみるのも良いだろう、と思ったのは、やはりその時が一番出店が多く並んでいるからが理由だ。
出店が出ていると聞いた時から、ティーダもそわそわと待ち遠しそうにしていたし、それに感化されたか、スコールも心なしか楽しみにしていた節がある。
それなら、日が落ちる前に行こうか、と言ったレオンに、ティーダは万歳を上げて、スコールもいそいそと上着を取りに行って出発の準備を始めた。
「港は寒いから、ちゃんと上着を着なくちゃ駄目よ、ティーダ」
「はーい」
スコールと一緒に人数分の上着を持ってきたエルオーネ。
その手から自分の上着を渡されて、ティーダとスコールが袖を通すのを確認してから、兄姉も服装を整えた。
島民の多くが、時間を問わず、それぞれの都合に合わせて港を目指すので、路を歩いていると擦れ違う人も多い。
スコール達と同じ年頃の子供達が、手に手にお菓子やジュースを持っているのを見て、幼い瞳が羨ましそうにそれを追った。
お参りが終わったらね、と宥めるエルオーネに、スコールもティーダもこくこくと頷くのが、見守るレオンには微笑ましい。
道すがらに会う近所の人たちに挨拶を交わしながら進むと、段々と人の影が増えて行く。
港には市場もあるから元々人が集まり易い場所ではあったが、今日はそれの比ではない。
出店の姿もちらほらと見えるようになって、ティーダが今から吟味するように目移りしていた。
「あっ、トウモロコシある!レオン、あれ食べたい!」
「ああ、後でな」
「見てみて、綿菓子ある!お祭りみたい!」
「そうだな。こら、手を離しちゃ駄目だぞ。はぐれたら大変だから」
良い匂いを漂わせる屋台の方へ、ふらふらと誘われていくティーダを、レオンは引っ張って連れ戻す。
こう言った誘惑が子供達にとってそれはそれは魅力的なのは判っているが、この人混みの中ではぐれてしまったら、迷子放送でもしなければ見付けられない。
平和なバラムの街であるが、こうも人が多いと、どうしても危ない事を狙う連中もいるものだから、繋いだ手は離さないようにしっかりと守らなくては。
レオンとティーダの後ろを歩く、エルオーネとスコールも、やはり並ぶ屋台に目移りしている。
「スコールは、お参りが終わったら何食べたい?」
「んとね、えっとね……チョコバナナ!」
「甘くて美味しいよね。半分こして食べよっか」
「うん」
スコールの食べる気満々で待ち遠しい様子に、お昼はもう此処で良いかなあ、とエルオーネは考える。
屋台の種類は様々で、お菓子もあれば総菜系もあるし、恐らく異国の食べ物であろう見慣れないメニューも並んでいた。
大きな寸胴鍋でスープを振る舞っている店もあり、何処か落ち着いて座れる場所でもあれば、其処で昼食にしても良いだろう。
それなら家に帰って準備と片付けをする必要もないし、と思いつつ。
参拝路にもなっている市場を半分ほど進んだ所で、港の先端へと延びる行列が出来ていた。
その最後尾に四人が並ぶと、すぐに後ろに別の人が並んでいく。
「レオンー、これ何の列?」
急に進む足が遅くなって、ティーダがレオンを見上げて訊ねた。
「水神様へお参りする人の列だ。ちょっと時間がかかると思うが、良い子で待ってるんだぞ」
「ちょっとってどれ位?」
「さて……この位置からだと、一時間かかるかどうかかな」
「えーっ、そんなに?先に行っちゃダメ?」
「駄目だな」
一時間の待ち時間となれば、ティーダは退屈だろう。
思った通りの反応に、レオンは眉尻を下げて苦笑しつつ、
「ちゃんと良い子で待ってたら、後で食べたいものを買ってやる」
「本当?」
「ああ」
「じゃあ待ってる!」
ティーダはレオンの手を握り、決意を固めるように宣言した。
よしよし、と頷くレオンの後ろで、そんな兄と幼馴染を、スコールが羨ましそうに見つめている。
そんなスコールと繋いだ手が、きゅう、と握り締められるのを感じたのはエルオーネだ。
「スコールも、良い子で待てる?」
「うん」
「じゃあ後でご褒美だね」
「うんっ」
姉の言葉に、スコールはぎゅっと手を握って頷いた。
参拝列が少しずつ動く中、ティーダは暇を持て余して、終始レオンやスコールにじゃれついている。
レオンはそんなティーダの両腕を握ってブランコのように吊り上げたり、木登りのように登らせたり。
昨年まで、スコールとエルオーネと三人で参拝に来た時とは、また違う光景だ。
時々、出店に誘われて列から出て行きそうになるティーダを捕まえ直しながら、レオンは参拝の順番を待っていた。
その内にレオンをアスレチックにするのも飽きたのだろう、列を整える為に張られた仕切りのロープを摘まんで遊びながら、ティーダが言った。
「ねえ、レオン。バラムって花火しないの?」
「花火?」
この時期に?とレオンが鸚鵡返しをすると、ティーダは拾った石を手の中で遊ばせながら続ける。
「ザナルカンドだとね、夜にでっかい花火が上がってたんだ。もう直ぐ来年ですって時に、ごー、よーん、さーんって数えて、最後にどーん!って」
「成程、カウントダウンと、明けて新年の祝いみたいなものか」
「そう言えば、テレビでも見たことあるね」
年明け間もなくから、テレビで放送される番組の中には、各国の年明けの様子を見せてくれるものもある。
ザナルカンドの新年はいつも賑やかなもので、ティーダがバラムの静けさを不思議に思うのも無理はない、と思う程に様相が違っていた。
若者達が夜通し街に繰り出すほど、人々が賑やかに楽しむ様子に、スコールも「お祭りみたいで楽しそう」と言っていたものだ。
「ねー、花火ないの?」
「バラムで花火が上がった事はないな」
「なんで?キレイですごいのに。皆も喜ぶよ」
「確かに、そうだろうな。でも、バラムはそう言うことをしてこなかったから」
「むー」
故郷で見ていた年の瀬の光景が、此処では見られないと知って、ティーダは少し残念そうだ。
バラムでは、花火と言えば夏の風物詩で、それ以外の機会では殆ど見ることがない。
自分達でやろう、と言うにも花火自体が売られていないので、ティーダが見たい景色はやはり難しいだろう。
レオンは拗ねたように唇を尖らせるティーダの頭をくしゃくしゃと撫でて、石遊びに夢中になって離してしまっていた彼の手を握り直した。
四人の前に並んでいた老夫婦が参拝を済ませ、ようやく順番が回ってきた。
海竜を象った石像の前に来て、レオンがジャケットのポケットに入れていた財布を取り出し、小銭を三人に握らせる。
「これどうするの?」
「あそこに入れるんだよ」
やり方が判らないティーダに、スコールが石像の足元にある石の器を指差した。
此処から入れるの、と目印にロープを置いて引かれた線の前に立ち、スコールは小銭を投げた。
ちゃりん、と言う音を立てて器にギル貨幣が入るのを見て、ティーダは「こう?」と同じように小銭を投げ入れる。
「それで、手を叩いて」
「こ?」
ぱん、ぱん、と小さな手が少しズレながら音を立てる。
「それから、お願いするの」
「何を?」
「えーと……ほんねんどはおせわになりました、らいねんもよろしくおねがいします、って」
「ほん……んん?」
ティーダに教えるスコールの拙い言葉遣いに、レオンとエルオーネはくすりと笑う。
毎年、シド先生に連れて来て貰っては、彼がそう言っていたのをそっくり真似ているのだ。
まだあまり内容までは理解できていない様子だったが、こう言った行事は、習う気持ちが大事というもの。
レオンとエルオーネも、それぞれ賽銭を投げ入れると、柏手を打って、海竜に向かって頭を下げた。
スコール、レオン、エルオーネがそれぞれに同じ仕草をしているのを見て、ティーダも同じようにぺこりと頭を下げる。
それから少しの間を開けて───ティーダはその間に、頭を上げては、三人の様子を見てまた戻す───、今年の感謝と来年の抱負を祈るお参りは終わった。
「よし。もう良いぞ、ティーダ」
「終わり?」
「ああ」
「やったー!」
退屈な待ち時間が終わったとあってか、ティーダは判り易く喜んだ。
隣に立っていたスコールの手を引いて、ぴょんぴょんと喜ぶティーダ。
「レオン、お店行こ!オレ、良い子にしてた!」
「ああ。スコールも、エルオーネも、皆良い子だったな。折角だ、何か食べて帰ろうか」
「おひるごはん?」
「そうだね。スコールもティーダも、なんでも食べたいもの言って良いよ」
兄姉の言葉に、スコールもまたティーダと同じように、ぴょこぴょこと跳ねて見せる。
全身で喜んで見せる弟達に、レオンとエルオーネは唇を綻ばせるのだった。
大晦日と言うことで。
以前に書いたバラムの年末を、また書きたいなと思ったもので。
ザナルカンドは年末年始もクリスマスも、そう言う節目行事自体が賑やかになりそうだなと。
厳かに迎えるよりは、新年を迎えると言う喜びとして、都市の中心部に皆が集まって一斉カウントダウンしたりとか。アメリカみたいな。
バラムはⅧの世界ではのんびりしてそうと言うか、都市と言う程大きくもないし、島なのでもっとのんびりしてそうだなと言うイメージです。
最悪だ────と言うサイファーの呟きを、スコールは否定しなかった。
そりゃあ確かに最悪だろう、と壁の向こうで未だ止まない銃声と、感情任せの男達の怒号に似た声を聴きながら思う。
彼等のお陰で、散々に方々を走らされる羽目になったので、服はあちこち擦り切れて、皮膚も傷んでいる場所が目立つ。
そこまでの目に遭わせられても、事はまだまだ収まらず、二人を追い回す男達は益々熱狂を持って銃口を向けて来る。
これを最悪と言わずしてなんと言おう。
二人を追い回す男達の声が、姿を隠す崩れた壁の間近に迫る。
自然と息を殺し、気配を殺し、歩調の合わない沢山の足音が近付き、遠退いて行くのを待つ。
どこだ、あっちだ、向こうを探せ、と飛び交う声は、とにかく二人を見付ける事に躍起になっていた。
見付かればどうなるか、過激派テロリストの考える事なんて精々知れているもので、碌な事にならないのは想像に難くない。
夜の帷も降りて時間が経った今、外気温は氷点下近くまで落ち込んでおり、乾いた砂塵が微かな風に巻き上げられて、其処に滞在を余儀なくされている者の目をチカチカと晦ませる。
そのお陰か、結局、二人は見付かる事なく、武器を持った男達は、壁の向こうから離れて行った。
研ぎ澄ませた神経で、眼に見えない気配を、その下となる音が近場に潜んでいない事を探りながら、スコールはゆっくりと詰めていた息を吐く。
キンと冷えた空気の中に、僅かに白いものが混じった。
「……行ったか」
「らしいな」
スコールの隣で、ガンブレードの引き金から指を外しながら、サイファーも頷く。
二人の対の傷を抱く眉間には、双方劣らない深い皺が刻まれており、埃塗れの頬に滲む汗もあって、どちらもかなり疲労している事が解る。
それだけ、二人は追い詰められているのだ────表向きは。
壁に背中をぴったりと当て、瓦礫の向こうを覗き、外部の様子を伺いながら、スコールは「……時間は?」と訊ねた。
サイファーも崩れた天井の穴を睨みながら、手探りでコートの中にある懐中時計を取り出す。
チ、チ、チ、とごくごく小さな音を刻む針を確認して、サイファーはもう一度呟いた。
「最悪だ。天辺越えだ」
日付が変わった、とサイファーは言った。
やっとか、とスコールが思っていると、サイファーは憎々しい声で続ける。
「折角の誕生日だってのに、こんな色気もねえ場所で迎えなくちゃならんとは」
「ああ……そう言えばそんな日もあったな」
「おまけに恋人はこの有様だしよ」
スコールの素っ気ない、所か興味もないと言う返しに、サイファーは益々苦い表情を浮かべる。
傷ついたと言わんばかりの声であったが、スコールは気にしなかった。
それより、ぎりぎり聞こえるか聞こえないかと言う場所から聞こえて来る声の方が、スコールには重要な情報源であった。
スコールが聞こえている位の声なのだから、サイファーも聞き留めているだろう。
が、サイファーはその声の気配に構わず、ぶつぶつと苦い言葉を吐き出しながら、手許の愛剣に新たな弾を込めている。
「こっちは色々と計画してたし、少しは期待もしてたんだぜ」
「例えば」
「うちの恥ずかしがり屋の恋人が、人目を忍んでこっそり用意したプレゼントを、何処でスムーズに受け取れるようにしてやろうかとか」
「そんな物好きがいるものなんだな」
「忙しい恋人に期待だけするのも難だろうって、敢えて俺からディナーの招待でもしてやろうかとか」
「ドールのホテルの最上階にあるレストランを勧めておく」
「ああ、良いな。何せあそこは個室もある。そう、そこのスイートルームって案にあったんだぜ」
「じゃあそこのシングルで」
「ダブルに決まってんだろうが。いや、どうせならキングだな。豪華なもんだろ」
「ああ、豪華だ」
「まあ、全部ご破算な訳だが」
見ての通りに、とサイファーは再度穴の開いた天井を仰ぐ。
ミサイルでも落とされたか、或いは爆発物でも放られたか、其処にはぽっかりと穴が開き、満点の星空が見えている。
其処だけ見れば多少ロマンチックに見えなくもないが、散らばる瓦礫と、火薬と灰燼の匂いが充満していては、ロマンなど何処にもありはしない。
色々と計画を立てていたのに、何もかも駄目になった、と呟くサイファーは心底悔しそうだ。
「ったく、テロリスト崩れを捕縛するだけで、こんな面倒な作戦をしなくちゃならねえなんてよ」
「人質がいるんだから仕方がないだろ。そっちの救助が最優先って依頼になってるんだから」
「だからってこんなでかい釣り針を使う必要があるか?」
「お陰であっちは追い回してくれてる。陽動には十分役に立った」
「十分どころか十五分だ。向こうもその程度の連中だってこった」
埃に塗れた顔を、やはり埃に塗れた服の袖で拭いながら、サイファーは忌々しげに呟く。
もっと簡単に済ませてやる方法も、短時間で終わらせる方法もあるのに、それを取れなかった依頼内容が憎い。
それは正直な気持ちも言えばスコールも同じで、こんな回りくどい方法を取るなんて面倒臭い、と思っている。
────バラムガーデンに寄せられた今回の依頼は、緊急に瀕したものであった。
昨今、鎖国を解いたエスタに、外交政策も踏まえて他国の外交官が訪れたり、駐在官を置く機会が増えるようになったのだが、その中に、強い魔女心棒の者がいた。
嘗ては魔女が納めた科学大国、今はバラムガーデンと並んで魔女戦争終結の立役国となったエスタは、魔女心棒の人間にとって、様々な意味で強い懸念と誘惑を齎すものだったらしい。
外交官としてエスタの地を訪れた魔女心棒者は、十七年の鎖国を経て尚、エスタ内でも不穏分子として警戒されていた、嘗てのエスタ大統領であり魔女であったアデルに心酔する者達と、密かにコンタクトを取っていた。
そして再び魔女が全てを支配するべきであると謡い、エスタを訪れていた他国の外交官や、その側近たちを拉致したのである。
拉致された人々を解放して欲しければ、現エスタ大統領のラグナ・レウァールと、“魔女戦争の英雄”であるスコール・レオンハートを処刑せよ、と言うのが彼等の要求だ。
当然ながら、とても応じれる話ではない為、エスタもバラムガーデンも飲む訳がないのだが、人質は救助しなくてはならない。
其処で、スコール自らが彼等の要求に応じる格好で前に出て、人質救出の時間稼ぎをする事になった。
相手が徒党を組んでの集団である事から、流石にスコール一人を行かせる訳にもいかず、かといって大人数で出向くのはあちらの要らぬ刺激になると、最大かつ最低限の戦闘力として、サイファーが駆り出されたのである。
かくして、人質の受け渡し場所として指定された、エスタの都市外周にある既に廃棄された地区にて、スコールはテロリスト達の前に現れた。
その場で銃殺刑を敢行しようとする彼等を、サイファーが乱入する形で阻止。
そのサイファーの乱入の直前には、通信でキスティス達から人質が押し込められていた拠点を制圧したと情報が入っている。
後は人質の安全が確保されるに至るまで、二人はテロリスト達からつかず離れず、且つ大立ち回りで彼等の眼を引く役目を担っていた。
陽動と言うのは、存外と面倒で気を遣わなくてはならない。
不審に思われない程度の損耗を与えながら、必要以上の増援を誘発する事なく、捕まらないが捕まりそうな距離を保つ。
恐らくは人質の救出については、途中であちらにも情報は伝わっている筈なのだが、其処で人質を奪い返されない為にも、人員を割かれないようにもしなくてはならないのだ。
だから余りに派手に暴れると、此方は手が付けられないと判断されてしまい、逃げに徹されるか、人質の再度確保に向かわれると厄介なので、それも加味しての応戦が求められる。
腹を空かせた魔物の大群の相手をするよりも、スコール達にとっては厄介な任務だった。
「お陰で俺の計画が全部台無しだ」
苦々しく吐き捨てるサイファーは、今日と言う日をこんな瓦礫埃の場所で迎えた事を、心底悔しがっている。
こんな風に、彼曰く『ロマンティックな計画』がお流れになるのは珍しい事ではなかったが、こうも愚痴る様子からするに、大分気合を入れていたのだろう。
後で何処かに休みを捻じ込んで、ついでに自分の休みも合わせてやらないと、臍を曲げ続けていそうだな、それはこの任務より面倒だ、とスコールは思った。
「大体、俺まで出張る必要があったか?あんな小物に、大層豪華な餌じゃねえか。飲み込める訳がないだろ」
「大きい方が食い出があるだろう。餌が目立てば遠くからでも寄って来るし」
「川底で苔つついてる奴が、自分よりでかい獲物が食えるかよ」
「時間をかければ食えるかもな。微生物だって大体そうだ」
「こちとらそんなに暇じゃねえ。ったく、さっさと帰ってこの美味い飯を鱈腹食いたいもんだ。そうだろ?」
「一人で食ってろ」
「お許しが出たな。骨までしゃぶりつくしてやる」
サイファーの言葉から滲む暗喩の気配に、スコールは肘で傍らの男の横腹を突いた。
いてぇ、等と欠片も思っていない声が返って来る。
そんなスコールの胸元で、小型の通信機が小さく着信を知らせた。
音声を介する程の精密さを持たないそれを耳に当てると、ツーツツーと言う電子音が聞こえる。
長短の組み合わせで暗号とするその音を聞いて、ふう、と一つ息を吐いた。
「喜べ、サイファー」
「あ?」
「人質救助班が予定通りにラグナロクに搭乗した」
作戦が予定通りに組み上がった。
それを聞いたサイファーは、それまで疲労と苛立ちで萎えていた瞳を、ぎらりと輝かせる。
「なら、もう良いんだな?」
「ああ。好きにやれ」
「お前もだろう」
スコールはシリンダーに込めた弾の数を確認し、サイファーはグリップを握り直して腰を上げた。
遠く聞こえていた男達の声が、また近付いて来る。
乱れた足並みは、彼等の指揮系統が混乱を起こしている事、動揺を隠すこともできない程に慌てている事を示している。
ならば最早単なる掃除にも等しいが、とは言え、姿を見せては隠してと繰り返していたフラストレーションを発散させるには十分だ。
最早逃げる必要もないと、牙を構えた獣が二匹、瓦礫と砂塵の中を真っ直ぐに歩き出す。
いたぞ、と言う声が砂煙の向こうから聞こえた。
ぞろぞろと集まって来る烏合の衆の数を確認しながら、スコールはふと思い出す。
「ああ、そうだ」
「あん?」
「誕生日おめでとう、サイファー」
忘れる前に言っておこう。
そんな気持ちでぽいと投げた言葉を、サイファーは受け止めた後、はああああ、と露骨に溜息を吐いて見せた。
「もっと色気のあるシーンで聞くつもりだったのによ」
「良いだろう、シーンなんて何処でも」
「雰囲気が大事なんだよ」
「じゃあ似合いだろう」
煌びやかな夜景も、見た目も良い豪華な食事も、此処にはない。
汗と蜜を吸い込んでくれるシーツもないし、二人を世界と隔てる壁もない。
瓦礫と塵と、鉄錆と、嗅ぎ慣れた火薬の匂いばかりが流れる戦場が、自分達には一番似合いの風景だ。
サイファーはそれを否定しなかった。
しなかったが、
「後でもう一回、ベッドの上で聞かせて貰うからな」
そう言って、初手を取りに地を蹴ったサイファーに、誰が言ってやるかとスコールも続いた。
サイファー誕生日おめでとう!
なんやかんやでサイファー誕生日を書く時は、ガーデンで過ごしていたり、しっぽりしていたりが多かった気がするので、ちょっと初心に返って戦場に放り出してみた。
戦闘的には余裕なんだけど、作戦の関係上で物陰に身を寄せ合っていつも通りの軽口叩きあってたら良いなって。
帰ったらお互い滾ってるのでそれはそれは盛り上がれば良いと思います。
文化祭でのクラスの出し物が演劇に決まって、スコールはほとほとうんざりとしていた。
元より、何をするにもやる気はなかったし、とは言え決まれば文句は言わずに仕事は熟そうとは思っていた。
あれをやりたい、これをやりたいと言う議題に参加する気すらない分、細々した道具を用意するでも、少々大がかりなセットを組む羽目になろうとも、それは黙ってやって行こうと。
話し合いに欠席していた訳でもなく、目の前でやる気のある面々が銘々と手を上げる中、こっそりと欠伸を我慢していたスコールだから、そう言うつもりでいたのだ。
それは決して嘘ではない。
だが、よりにも寄って自分が舞台に直接立つ事になろうとは。
それも主役級の、狂言回しとして台詞も出番も多い、主人公の敵役なんてものに推薦されようとは。
推挙された時には、「は?」と間の抜けた声が出たものだった。
しかし、それを聞き留めた者は誰もなく、スコールが茫然としている間に、満場一致で勝手に可決されてしまう。
後でクラスの実行委員を引き受けているセルフィに抗議に言ったが、概ね予測できたことではあるが、彼女は「もう決まっちゃったもん」とけろりとしていた。
嫌だと言うなら、話し合いの最中にそれを唱えてくれないと、と言う彼女の言葉は扱く真っ当な指摘である。
おまけに、「クールで知的でぶっきら棒な役なんだよ。スコール、似合うんじゃない?」とまで言われた。
明らかに幼馴染の気質を判っていながら、面白がっているセルフィに、スコールは思わず声を荒げそうになったが、察知したのか彼女は一足先に「委員会の仕事があるから~!」と言って走り去ってしまった。
そんな彼女を追う気力が、スコールにある筈もなく。
端役で終わるとか、それが駄目ならナレーションとか。
とにかく、長々と舞台の上で、観衆の前に立たなければならない事が、目立つ事を極度に嫌うスコールにとっては耐え難いものだった。
しかし、セルフィの言った事も確かではあり、出し物を決める段階から、配役が選ばれていく所まで、スコールが話し合いに参加する姿勢を持っていなかったのも確か。
なるようになれ、と周囲に任せていた身を思えば、この流れに逆らえないのも当然と言えるかも知れない。
────それから一週間後、スコールの手元には、件の演劇の台本が渡された。
有名な舞台演劇からお題を借り、本来なら数時間に及ぶ長丁場となるその内容を、判り易さを重視にアレンジにアレンジを重ね、一時間程度に絞り込んだもの。
圧縮された内容なので、話が疾風怒濤のように、時に都合よく進むのは、学生のお祭りの味と言うことで見逃して貰うとしよう。
しかし、そんな内容でも、狂言回しの役所となるスコールの台詞は多かった。
スコールの役は確かに主役級と言うものであるが、捲る度に自分の台詞があるのを見て、これは本来の主役を食ってないか、と思う。
とは言え、暗記自体はそれ程苦手にはしていない。
まあ覚えるだけならと、真面目振りがひょっこり顔を出して、立ち稽古が始まるまでにはスコールは自分の台詞を凡そ頭に入れ終えていた。
だが、スコールが台詞を完璧に覚えても、それだけで舞台は出来上がらない。
台詞に合わせて動きもついて、感情を表す抑揚をつけ、相手がいればその動きにも合わせねばならない。
演劇部でもないスコールにとって、それらは生まれて初めての経験だった。
その上、台詞と出番が多い所為で、スコールは舞台に殆ど出ずっぱりである。
場面が一つ終われば次、そのまた次と、他の者が順繰りに休む中、スコールは水を一口飲んでは練習に戻ると言うのが精々だった。
(こんなの、演劇部の奴にやらせろよ……!)
素人にやらせて良い役じゃない、とスコールはつくづく思う。
もっと役者として適任がいただろう、とも。
どうして自分が推薦されたんだと、眉間に深い皺を浮かべるスコールは知らない。
スコールにこの配役をやらせたいが為に、複数人の女子生徒が共謀し、クラスの出し物と配役が決まった事を。
長い稽古の時間が続いて、覚えている筈の台詞が飛び始めたスコールに、流石にこれは休ませないといけないと、ようやく監督役の生徒が気付いた。
もっと早くに気付いて欲しかった、とスコールは思ったが、止めてくれただけでもスコールにとっては恩の字だ。
スコールは少しの間、身も心も配役から解放されるべく、稽古用に使っている教室からも離れる事にした。
半分になっていた水の入ったペットボトルを片手に、スコールは何処で過ごそうかと思案しながら廊下を歩いていた。
文化祭の準備が本格化して以来、放課後になると、校舎のあちこちで、設営用や展示用の道具が作られている。
誰それがサボってる、何々が足りないから買って来て、そんな声がよく聞こえる。
賑々しいと言えばそうだし、楽しそうにしている生徒も少なくないが、スコールにとっては騒々しい位にしか聞こえない。
早く文化祭そのものが終わって、いつもの静かな日々が戻ってきて欲しいものだ。
空き教室は大体が何処かのクラスの準備に使われていて、人の出入りが激しい。
校舎の外の方が人は少ないかも知れない───と思ったが、此方も此方で、設置予定の飾りものやら、その材料やらが積まれていた。
どうにか静かに休める場所は見付からないものか、とスコールが暫く歩き回っていると、
「スコールじゃん。劇の練習、終わったのか?」
名を呼ぶ声が背中に聞こえて、振り返ってみると、ヴァンがいた。
両腕には木材と大工道具を抱え、此方も出し物の準備の真っ最中のようだ。
はあ、とスコールは溜息を吐いて、
「終わってない。ただの休憩だ」
「まだ練習はやってるのか?」
「ああ」
ヴァンの言葉に頷きながら、いっそ今日はもう終わりに出来ないだろうか、とスコールは考える。
台詞を言うにも、意識しないと呂律が上手く回らないくらいには、疲れが溜まっているのだ。
それが、他クラスに所属するヴァンから見ても、ありありと判ったようで、
「疲れてるな」
「……」
「保健室行くか?」
「……それ程じゃない」
ヴァンの提案に、スコールは小さく首を横に振った。
ただの疲労と、見栄を張る気力がなくなっただけで、保健室で寝込まなくてはならない程でもない。
とは思っているのだが、気分的には、何処か静かな所でゆっくりと過ごしたい。
しかし、放課後とは言え、近付く文化祭の準備に向けて、校内は何処も人の気配で溢れている。
校舎の外も同様で、偶にスコールが人目を避けて昼休憩を過ごす校舎裏も、今は設営作業のサボタージュ生に占拠されていそうだった。
はあ、と何度目か知れない溜息がスコールの唇から漏れる。
ヴァンはその様子をじっと見つめ、
「俺のとこの教室、来るか?俺の班、今日は皆帰っちゃったから、俺一人だし」
そう言ってヴァンは、廊下の向こうにある教室を指差した。
スコールはその指の先をじっと見つめた後、無言でその方向へと歩き出す。
ヴァンのクラスでの出し物は、隣の教室も借りての迷路になったとか。
脱出ゲームの要素も盛り込んで、色々とギミックも仕込むつもりらしく、早い段階からその為の材料や機材の確保に駆け回っていた。
ヴァンは別段、文化祭に張り切っている訳でもないそうだが、ゲームに必要な道具を作るのが楽しいと言っていた。
ヴァンが言った通り、彼の教室に人の気配はなく、代わりに教室の後ろに沢山の木板や段ボールが納められている。
今日の放課後作業の為か、机は窓際に寄せられて、空いたスペースには大きな模造紙と解体した段ボールが広げられていた。
スコールは適当に椅子を運び出すと、其処に座り、模造紙の大きな絵をカッターでくり貫いているヴァンを見る。
「……あんた以外の奴はどうしたんだ」
「さっきまでいたよ。でも皆、塾とかバイトとかあったし、今日やる事は俺一人で十分だから、先に帰らせたんだ」
「……」
「代わりに、明日は俺が先に帰らせて貰うんだ」
くり貫いた絵をの上にヴァンは段ボールを一枚ずつ重ねる。
絵がすっかり覆われると、段ボールをガムテープで繋げて行き、大きな一枚の厚板にした。
ヴァンの話を聞きながら、役割分担が出来る奴は良いな、とスコールは思った。
演劇の主役級に飾り立てられたお陰で、スコールのその役割は、何処を取っても替えが利かない。
役を降りたいのなら、代わりの人を立てなくてはならないのだが、台詞も出番も多いスコールの役処を、好んで引き受けたがる者はいないだろう。
他クラスの人間も巻き込んで良いのなら、「お前がやれるんなら、俺でも出来る役だろ」等と宣った金髪の幼馴染に早々に押し付けてやれるのに、と何度思ったか知れない。
ボンドとガムテープを使って、絵を板に貼って行くヴァン。
スコールは椅子にすわってそれを眺めながら、ふあ、と欠伸を漏らした。
作業に集中しているとばかり思ったヴァンの視界に、それはしっかり映ったようで、
「眠いのか?」
「……かも知れない」
台詞を覚えて、立ち回りを覚えて、ステージに立ちっぱなしで。
流石にスコールも集中力が切れる位には疲れていたし、人気のない場所を欲しがったのは、体がそう言う休息を欲したからもあるだろう。
相変わらず、教室の外は人の気配が絶えないが、それらが扉一枚、壁一枚向こうであると言うだけで、今のスコールには随分と気分が楽だった。
椅子の背凭れに寄り掛かり、スコールは夕暮れ色の滲む教室の天井を仰ぐ。
───と、その薄くぼんやりとしていた視界に、ふっと褪せた銀色の影が差す。
「……なんだ」
見下ろすヴァンの顔を見つめ返して、スコールが言うと、ヴァンは徐に右手を上げて、ぽんぽん、とスコールのチョコレートブラウンの髪を撫でた。
それを黙って受け止めていると、ゆっくりとヴァンの顔が近付いて来て、スコールの深い谷が出来た眉間に唇が触れる。
「……なんだ、急に」
「大変そうだから、お疲れ様って」
「…そう思うんなら、あんたが代わりに劇に出てくれ」
「スコールの役、台詞一杯だったじゃんか。覚えらんないよ」
労うならいっそ、とスコールの台詞に、ヴァンはきっぱりと返した。
それを聞いて、だろうな、とスコールも思う。
大道具とかなら手伝えるけどなぁ、と呟くヴァンだが、其方はクラス内で十分人手が揃っている。
それより、凝った迷路作りのヴァンのクラスの方が、その類の仕事では大変そうだから、逆に駆り出される人員が出て来るかも知れない。
ともあれ、スコールの為にヴァンが出来る事と言うのは、ないに等しい。
ヴァンはスコールの頭を撫で続けていて、小さな子供じゃないんだが、とスコールは思ったが、一応、彼にとっては労っているつもりなのだ。
それを振り払う気にならないのは、突かれているからだと思う事にする。
「そんなに疲れてるなら、今日はもう帰って良いんじゃないか」
「……練習が進まなくなるだろう」
「でも、今だって皆はやってるんだろ?スコールが抜けた状態で」
確かにヴァンの言う通り、今も教室では演劇の練習が続いている。
スコールの配役の所は、其処に出番のない者が台本を持った状態で立っていた。
本番でそんな状態は勿論できないが、練習位は、そう言う代役が出来るのだ。
でも、だからと言って、先に帰らせてもらう、なんて事はスコールには言い出し難い。
明らかに体調が悪いと言うならともかく、ただ疲れているだけなのだ。
どうせ明日も覚えなくてはいけない事が増えるのなら、後ろ倒しに借金を作らないでおきたい、と言うのがスコールの心中であった。
とは言え、今はまだ自分の教室に戻る気になれない。
ヴァンと二人きり、少しだけ静けさのあるこの閉じた空間の中で、もう少し休んでいたかった。
「……ちょっと寝る」
「起きたら家帰るか?練習戻る?」
「……気分で決める」
「判った。どれ位で起こしたら良い?」
「……二十分で」
スコールの言葉に、ヴァンは頷くと、携帯電話を取り出した。
タイマーアプリでもセットしているのだろう、その間にスコールは仰がせていた頭を俯けて目を閉じる。
本当は横になりたい気分だったが、並ぶ机をベッドにする勇気はスコールにはなかった。
傍らに立っていたヴァンの気配が動いた後、ぱさり、と何かがスコールの肩にかけられる。
薄く瞼を開けてみると、視界の端に、自分のものではない制服の上着が見えた。
それから耳元に柔らかいものが触れたのが判って、此処は学校なのに、と思いながらも、その感触が心地良くて緩やかな微睡に誘われる。
遠ざかる気配にを追うように、視線を少し動かすと、薄着になったヴァンが作業を再開させている。
ぺりぺり、ぺりぺりと、ガムテープを剥がす音を聞きながら、スコールの意識はふわふわと浮いて行くのだった。
12月8日と言う事で、ヴァンスコ。
付き合っているけど、クラスも違うし、多分周りからはそんなに親しいとは思われていない。
なので校内であんまりそう言う事はしたくない、と思っているけど強くは拒否しないし案外吝かでもないスコールと、今なら良いよなって言う気持ちで触れるヴァン。
ヴァンは周りに知られても余り気にしないけど、スコールが気にしそうだから言わないようにしてる感じ。
人目のない所では割とべったりしてそうな二人でした。